優秀だった姉が統合失調症に…「どうして何もしないのか?」弟の不信感が表れた家族写真と、忘れることのできない“両親の衝撃的な会話”〉から続く

 医学部に通うほど優秀だった姉に、統合失調症の症状が現れて突然叫びだした。医師で研究者の両親は、そんな姉を「問題ない」と医療から遠ざけ、南京錠をかけて家に閉じ込めた――。

 藤野知明監督による映画『どうすればよかったか?』は、20年にわたり自身の家族にカメラを向け続けた作品だ。2024年12月に公開されるとすぐに口コミで大きな話題を呼び、動員数は16万人を突破。ドキュメンタリー映画として異例のヒットを記録した。

 ここでは、映画に入れるのを断念したショッキングな事実も含め、藤野監督自身が率直に綴った著書『どうすればよかったか?』より一部を抜粋して紹介する。監督が初めて姉の記録を残そうと決断した日、録音された言葉から感じ取った姉の思いとは? (全4回の2回目/続きを読む

 

1979年の正月。両親は50代前半。姉は20歳で受験勉強中。私は小学6年生。姉が発症する前の頃。 ©2024動画工房ぞうしま

「家族療法」の挫折

 私が2度目の4年生になった、92年のことです。私自身がうつ病かもしれないと思っていたので、大学の相談室へ行きました。家の悩みもあるし、留年もしている。精神的に本当に参っていました。

 相談室で対応してくださったOさんは私の話を聞いて、「家族療法」をやってみようと勧めてくれた。当時は、姉の病気の原因は両親にもあると考えていたので、姉だけでなく家族皆が治療に関わることによって、姉によい影響があるかもしれないと期待しました。

 この頃の私は家にいながら卒論に取り組むなんて無理だと思い、半年だけですが、大学の近くにある家賃1万円の4畳半の下宿を間借りしていました。そこでは精神医学の本を読んだりもしていました。もちろん姉の病状を知るためです。そういう専門書を姉に見つけられると刺激を与えてしまうので、家では読めませんでした。

 相談室へ行った後、久しぶりに下宿から家へ戻って母に家族療法の話をしました。父と母、姉の3人の予定が合う日を教えてもらい、「カウンセリングには皆で来てください」と、母に頼んで別れたんです。

 でも当日は母しか来ませんでした。父は相談室のOさんの論文を読んだが納得がいかないと言い、姉も連れて来なかったんです。母は家族療法を断りに来ただけだった。

 Oさんは、家族療法について母に説明をしました。実践するのは大変であること。成人した息子、娘が治療の最中に子供に戻ってしまうような場面もある。「その時に、お子さんを抱きしめられますか?」とも問いました。すると母は少し思案した後、「いいえ。できません」と一言。父の否定的な態度はある程度想像の範囲内でしたが、母の断ち切るような言葉は予想外で、聞いていた私はショックを受けました。

 母が帰った後、Oさんと話をしました。この機会に姉の治療が進むことを願っていたので、私はこの結果に呆然とし、今後どうしていいのか考えが浮かばなくなりました。Oさんはこのように言いました。

「お姉さんもあなたも元気になり、家族皆それぞれに、問題が起きる前の人生を歩めるようになる。そのような、あなたが期待しているような解決はないかもしれない」

 ということは、少なくともこの先10年、20年はこの状態がずっと続くのだろうと想像がついた。それなら姉の問題は一旦両親に任せて、私は自分の人生を優先する方がいい。そう悟るとかえって焦りが消えて、心は落ち着きました。

家から離れる決意

 姉を医師に診せるという道は、留年が決まった時も諦めてはいませんでした。まだ何かできることがあるんじゃないか、と。

 でも、両親と相談しても埒があかない。日常に愛情を感じる言葉のやりとりもない。もう父だけではなく母も“姉は病気ではない”という物語の中におり、話にならない状態でした。だから札幌の家から離れようと決めました。

 それ以前から自立しなければと思い続けてはいました。姉のことで両親と衝突しているのに、留年する学費は全部出してもらっていた。経済的にも親頼みだし、根無し草みたいな学生だったので、家族の中で私の発言権は軽かった。ちゃんと生活力を得た上で意見をしようと心を固めたわけです。

 卒論も今回は出せて卒業は確実になり、内定をもらった大手住宅メーカーに入ることにしました。営業職だったので不安はありましたが、とにかく就職することを第一に考えました。自分が目指す先には行けませんでしたが、生き方は私が決められた。

 
1994年の元旦。家族で食事をしているところを父と母が撮影した。私はカメラを見ることを拒否している。姉は自宅で医師国家試験の勉強中。私は横浜でハウスメーカーに勤務していて帰省中。 ©2024動画工房ぞうしま

 家を離れるにあたり、私のように自分で人生の選択をする状態にない姉のことが気になってしまいました。

姉の記録を残さなくては

 家を出ることになった私は、今のうちに姉の記録を残さなくては、と考えました。記録を残しておけば、いずれ医師に聞かせることができるかもしれない。だから日頃、大学の行き帰りに音楽を聴いていた愛用のウォークマンにマイクを付けて録音を始めることにしました。以前から何度か録音を試みたこともありましたが、うまく録れず不完全な状態でした。

 初めて録音した日、夜の10時か11時くらいだったと思います。リビングで姉が興奮状態に陥り大声を上げているのを、単身赴任先から帰っていた父が落ち着かせようとしていました。怒っているかと思えば泣くような声でした。2階の自室にいると姉が大声を上げたり、1時間おきに部屋に入ってきたりするので、当時私は応接間で寝起きしていました。

 すると応接間のドアがガチャッと開いて姉が入ってきました。私はウォークマンのスイッチを入れました。

1992年、初めて家の様子を録音した時。姉は隣の部屋と私がいる部屋を行ったり来たりしながらしゃべり続けていた。父は姉の後をついて歩き、姉をなだめようとしていた。母は家の中にいたが、この時近くにはいなかった。時刻は夜10時まわっていた。(イラスト:藤野知明) ©2024動画工房ぞうしま

「知明、日本のバカだな。なんでそんなにゲレ(北海道の方言で「ビリ」の意)になってんの」

 姉はそういう言葉を発していた。怒っているのは私が留年していたからです。

「早く上がんなさいよ。お前、できなきゃだめだ」

 姉自身も長い浪人生活を過ごしていた中で「よい成績を取らなければ」という強迫観念を抱えており、こういう言葉が頭に巡っていたのではないか。だからこの夜、私を媒介にした自分自身を鼓舞するような言葉が溢れていたんでしょう。

「お前の顔なんか病院に叩き込んでやるぞ」

 これは成績云々とは関係ありません。「病院」というのは精神科病院を指しています。姉が気にしていたことが口に出たのだと思います。

 83年に救急搬送されて以来、姉は病院には行っていません。ただ、病院という存在を気にするようになった遠因はいくつかあるのだろうと察しています。だから、「病院」「入院」を意識せざるを得ない状態だったのかもしれない。

その後続けて、

「どうして家から分裂病が出なきゃなんないの」

 と言い、「自分は統合失調症かもしれない」という疑いを打ち消そうとしているように聞こえます。とにかく姉の頭の中は嵐のようになっていて、大声でも出さないと落ち着かない、不安を抑えられなくなっていたんだと思います。

 その状態は私にも覚えがありました。半年間の下宿暮らしの頃でしょうか。静かな部屋で夜、電気を消して寝ようとした。すると家族や自分の将来についてのいろいろな悩みや考えがぐるぐる回ってきて、それがもう止まらなくなる。自分でコントロールできない思考がエンドレスで回るんです。寝ているのも辛いから、冬の夜中にコートを羽織って外へ出ていき、大学の周りを2時間くらい歩き続けていました。

 録音を聞き返すと、力尽きて止むまで約30分続いた姉の大声も、そういった不安への抵抗だと感じました。

「これで勉強ができるね」統合失調症の長女を医者に診せなかった父が、娘の葬儀で棺に入れたものとは? 息子は「やめた方がいい」と…〉へ続く