二〇一九年も暮れようとしていた一二月末のある日、わたしはインド北東部マニプル州、インパールの地に降り立った。かつて日本軍が想像を絶する過酷な環境のなかで、甚大な犠牲を払ってでも到達しようとしてついに叶わなかった目的地だ。
しかし、その場所に自分がいることにどうも実感が湧かなかった。それは何と言っても、あまりにあっさりと現地に着いてしまったからだ。前日の午前中にはまだ成田空港にいて、搭乗前には眩しく感じるほど明るい照明のもと、手土産にと日本の菓子を売店で買っていた。成田からデリーへ行き、一泊した後に国内線の直行便に乗ると、昼過ぎにはすでにインパール空港に到着。成田を出てから二七時間しか経っていなかった。
到着翌日から、戦跡めぐりを開始した。最初、ここは一体どこなのだろうという不思議な感覚があった。「インパールの戦い」における主戦場のひとつ、ティディム・ロードからインパール市内に戻る途中、戦跡ガイドのヤイが車を止めさせ、刈り入れが済んだ田んぼのあぜ道に連れていってくれた。西側にそびえる丘陵地帯を指差し、あの稜線を日本軍が行軍していったのだと教えてくれた。ちょうど夕暮れ時で、太陽が山の彼方に沈もうとしているときだった。その風景は、凄惨な戦闘が行われた現場というよりは、日本の農村と言ったほうがしっくりきそうだった。当時も同じような風景を見たであろう日本軍の将兵は何を思っただろうか。故郷の山河や家族の姿を思い浮かべただろうか。それとも、空腹と行軍に次ぐ行軍、それに飛び交う銃弾のなかで、感傷的な思いにひたる余裕はなかっただろうか──そんなことを考えながらわたしは眼前に広がる景色を眺めていた。
マニプル州各地の戦跡をまわるなかで、案内を頼んだ戦跡ガイドのヤイと、インパールの戦いをめぐり多くの話をした。マニプル出身の彼はデリーやコルカタ(旧カルカッタ)で学んだ後、地元の歴史、とくに第二次世界大戦期に現地で何が起きたのかを知りたいと思うようになり、二〇一〇年からは戦跡ガイドの仕事をしている。戦時中に撮影された白黒写真を手にインパールやコヒマ、さらにはミャンマー(旧ビルマ)側の戦跡を丹念にまわって当時と現在の状況を比較したり、膨大な量の英語文献や地元の資料にあたって細部まで検討を加えたり──ヤイからは、ガイドというよりフットワークの軽い、アクティブで情熱的な学者のような印象を受けた。インパールやコヒマの戦いについてマニプルやナガランドの古老たちからの聞き取りも重ね、その成果を一冊の本にまとめて二〇一九年に出版することもしている。
ヤイの客はイギリス人が大半を占めるということだった。英印軍(イギリス植民地下のインド軍。兵士はインド人やグルカ族で、指揮官はイギリス人将校。ただし、インド人将校もいた)の側で戦った将兵にとって、インパールやコヒマは苦難の末に勝利を収めた「栄光の地」なのだろう。それだけに、ヤイはイギリス側の見方に精通していた。「イギリスの博物館が自国の『最大の戦い』を決める企画を行ったことがあるのですが、そこで選ばれたのが『インパールの戦い』でした」──イギリス側がインパール作戦をどう見ているかに話が及んだとき、ヤイがそう言った。「東のスターリングラード」と呼ばれている、とも。
後日調べてみると、彼の言うとおりだった。二〇一三年四月の国立陸軍博物館による企画で、参加した歴史家たちはインパールとコヒマの戦いを「グレイテスト・バトル」に選んでいたのだ。一九四四年のノルマンディー上陸作戦や一八一五年にナポレオンを破ったワーテルローの戦いを抑えての選出だっただけに、BBCは「サプライズだ」と評している。
「東のスターリングラード」という表現については、すでに一九五五年に出版されたインドの文献で「独ソ戦におけるスターリングラードと同じように、ビルマ戦においてインパールは重要な役割を担った」という言及が見つかった(S. G. Chaphekar, A Brief Study ofthe Burma Campaign, 1943-45, p.48)。その後、英文の戦史書や記事でインパールやコヒマの戦いを紹介する際に使われるようになり、最近ではCNNのウェブ記事のタイトルにも登場している(“Revisiting India’s forgotten battle of WWII: Kohima-Imphal, the Stalingrad of theEast”〈「『東のスターリングラード』ことコヒマ・インパール:インドの忘れられた第二次大戦の戦いを再考する」〉, CNN, October 5, 2020)。
この結果はわたしにとっても意外だった。日本でインパール作戦と言えば、たしかに「激戦」という言葉がついてまわるが、その敗北は英印軍との戦いもさることながら、「自滅」によるものだという印象が強かったからだ。実際、作戦には日本軍の三個師団が参加したが、戦病死や餓死の割合が大きく、戦死者数を上回っていた師団もあったほどだ。手持ちの食糧が底をついても補給などなく、モンスーンがもたらす猛烈な雨のなかでマラリアやアメーバ赤痢といった感染症が蔓延、命尽き果てた将兵の死体は打ち捨てるよりほかなかった──「白骨街道」という言葉とともに、そんなイメージを抱くことが多いのではないだろうか。部下の慎重論を排し、兵站を無視して作戦を強行した第一五軍司令官・牟田口廉也中将の「無謀さ」にも、必ずと言ってよいほど非難の矛先が向けられる。
そんな日本軍が相手だったのだから、英印軍からすれば、「楽勝」とは言わないまでも、終始自分たちのペースで進められる、余裕のある戦いだったはずだ。それがなぜ、「最大の戦い」と位置づけられるのだろうか。スターリングラードに比せられるほどの激戦になったのはなぜか。それほどまでに重視されるインパールの戦いは、英国にとってどのような意味を持っていたのだろうか。
わたしはインドをはじめとする南アジアを研究する立場から、インパールの戦いに注目してきた。外務省の仕事でインドやパキスタンの日本大使館に駐在したこともあり、両国の都市部から辺境まで各地を訪ねてまわってきた。二〇一六年には、戦前に日本で生まれ育ち、インド国民軍(INA)の女性部隊に参加したインド人少女の物語を軸に、インド独立運動と日本の関わりをテーマとした本を上梓した。
当時からインパールの戦いを取り上げた膨大な数の文献に接してきたが、そのなかで気になって仕方がないことがいくつかあった。そのひとつは、議論の方向性や記述の内容がひどく内向きなことだった。作戦に参加した将兵自身が記したものであれば、ビルマ・インド国境線にあるアラカン山系を越える行軍や補給の途絶、感染症の蔓延がいかに過酷だったかが縷々としてつづられている。リーダーシップや意思決定の観点から論じたものであれば、牟田口廉也第一五軍司令官の「暴走」とそれを止められずに作戦を容認してしまった河邊正三・ビルマ方面軍司令官や大本営の対応を批判的に取り上げる、といった具合だ。
もちろん、それを否定するつもりは毛頭ない。とくに、将兵の回想録や連隊の文集、記者のルポルタージュを読むときは、筆舌に尽くしがたいほどの戦場の残酷さゆえに、いつも胸が締め付けられるような気持ちになる。生還者の多くが当時の状況を「この世の地獄」と表現しているが、誇張とはとても思えない。司令官を責める議論にも妥当性はあるし、そこから引き出せる教訓はいくつもあるだろう。
ただ、ここで問題にしたいのは、戦いの相手である英印軍の存在が希薄に感じられるという点なのだ。種々の文献で英印軍のことが出てこないわけではない。たとえば、要衝のコヒマを占領した第三一師団の関係者は、敵軍との間に繰り広げられた壮絶な攻防戦の様子を克明に記している。しかし全体としては、英印軍はどこか遠い彼方の存在という印象を受けることが多かった。同じことは、友軍であるはずのINAについても当てはまる。作戦当時、従軍記者として現地で行動をともにした丸山静雄氏の著作など若干の例外を除いて、INAに話が及ぶことはまれで、取り上げられる場合でもごく簡単にしか触れられていないのである。
もうひとつは、扱われる「期間」をめぐる問題だ。「ウ号作戦」が実施された一九四四年三月から七月の間に焦点を当てる文献が多く、広くとっても大本営が作戦を認可した同年一月か、牟田口司令官が作戦を推進するべく兵棋演習を行った四三年六月あたりまでなのだ。たしかにその期間が「インパール作戦」と言ってしまえばそれまでだが、この戦いが持つ意味をより深く理解するためには、果たしてそれで十分なのか。もっと長いスパンで捉える必要があるのではないか──そんな気がしてならなかった。
さらに、「インド北東部」という場所とそこに住む人びとの存在があまり語られていないのではないか、という点もある。戦跡ガイドのヤイがこんなことを言っていた。「インパールの戦いは、あたかも誰も人が住んでいない土地で英印軍と日本軍が戦ったかのように伝えられることが多いのです。でも、そんなことはありません。戦場となった場所には、人びとが住み、生活の営みがあったのです」。わたしが感じていたことと、まさに一致していた。激戦が展開されるなか、現地の人びとはどのような影響を受けたのか。英印軍に協力した部族もいたし、逆に日本軍に協力した部族もいただろう。彼らはどんな思いから決断をしたのか。
一言でいえば、インパールの戦いをめぐる日本の議論には、他者の視点とより大きな観点が欠けているのではないか、ということなのだ。戦いの実態を詳細に検証することは必要にしても、その向きを外にも向けるべきなのである。その思いは、現地を訪問していっそう強まるばかりだった。
そこでわたしは、英印軍の視点から書かれた英国の文献やインド北東部の資料を集中的に渉猟し、再検討を加えることにした。元々所蔵していたINA側の資料にもあらためて当たってみたほか、インド北東部に詳しい専門家の話にも耳を傾けた。
その作業から、いくつか重要なことがわかってきた。
まず何と言っても、インパールの戦いに対する英印軍、さらには英国の確固たる位置づけだった。一九四一年一二月から四二年四月にかけて、アジアに駐留する英印軍は快進撃をつづける日本軍の前に惨めな敗北を喫した。マレー半島、香港、シンガポール、そしてビルマと、大英帝国の植民地はまたたく間に失われていった。その結果、インドは帝国の要というだけでなく、アジアにおける最後の砦になったのである。そこに日本軍から攻め込まれ、インパールなど北東部、さらに広い地域が占領される事態になれば、戦況面でも心理面でも深刻な打撃を被ることになる。折から過熱していたインド国内の独立運動との連動も危惧された。帝国の屋台骨が大きく揺らぎかねない状況にあったのである。
当然ながら英印軍はインド防衛だけでなく、反攻の機会も虎視眈々とうかがっていた。ビルマ奪還という目標は一九四二年春の撤退直後から、英印軍のなかで掲げられてきた。問題は、それをいつ、どうやって実施するかだった。ビルマ敗退戦で激しく消耗し、将兵の士気も低下した軍をどう立て直すかも課題だった。
現地で軍を率いることになったウィリアム・スリム将軍ら司令官は、「絶対に負けられない戦い」を制すべく、さまざまな措置を講じた。戦略の練り直し、新たな戦術の導入、将兵の戦意向上に向けた試み、それに現地部族との協力関係の再構築である。
一九四四年三月に日本軍がついにアラカン山系を越えてきたとき、英印軍は万全の状態を整えていた。実際、多くの局面で英印軍は有利に戦闘を展開した。とはいっても、あちこちで「誤算」が生じ、なかには全体の戦況を左右しかねないものもあった。日本軍の将兵は限られた装備と食糧にもかかわらず、あと少しというところまで英印軍を追い詰めた。その結果、「東のスターリングラード」「グレイテスト・バトル」と称されるほどの戦いに発展したのである。
では、激戦の勝敗を決したものは何だったのか。
それは「準備」と「情報」の差である、というのが筆者の考えだ。英印軍はビルマでの敗北から教訓を汲み取り、次の戦いを見据えて徹底的な準備に取り組むとともに、そのために必要な情報収集を行った。さらに、連合軍のアジア・太平洋戦線をいかに有利に進めていくかという戦略のなかにインド防衛・ビルマ奪還を位置付け、味方の損害を最小限に抑えるとともに日本軍の抵抗力を奪おうとした。チェスに例えれば、チェックメイトに持っていくべく敵をじりじりと追い詰めていくプロセスに似ていた。
一方の日本軍は、英国屈服を対米英戦終結に向けたカギと位置づけながらも、大英帝国の要であるインドにどう対処していくかについて戦略を持っていなかった。個々の軍人でビジョンを持っていた者はいたが、それが軍という集団としての共通認識になることはなかった。そもそもソ連や中国に目が向いていた陸軍にとって、インドはおろか南方に対する関心は低く、対米英戦が現実味を増すなかで慌てて情報収集に着手するという有様だった。
たしかにマレー半島で投降インド兵を組織して結成されたINAはあったし、卓越した独立運動指導者のスバース・チャンドラ・ボースも招聘した。F機関から岩畔機関を経て光機関にいたった対インド工作機関も、シンガポールやビルマ、インド・ビルマ(印緬)国境地域で秘密裏に活動を展開し、英印軍にとっては脅威となった。とはいえ、こうした個別の活動が一定の成果を挙げる一方で、インド北東部に進攻して英印軍と戦うことの意味が戦争指導全体のなかで的確に位置付けられることはなかった。
日本軍がインパール作戦を実行したのは、「一発逆転」に賭けたからだった。太平洋戦線で苦戦がつづくなか、インド北東部で輝かしい勝利を手にすることで一気に戦局を転換したいというねらいがあったのだ。牟田口司令官は作戦発起から二か月足らずの天長節(昭和天皇の誕生日である四月二九日)までにインパールを陥落させたいという目標を掲げていたが、そこにも皇軍の戦意高揚を図りたいという目論見があってこそだっただろう。
日本軍の期待を英印軍と同じように盤上ゲームに例えれば、オセロで起死回生の一手によってずらりと並ぶ相手の石を一気に裏返そうとする試みだったと言える。しかし、それはあまりに実行可能性を無視したものだったし、現実としても大失敗に終わったのである。
本書は、このような視点からインパールの戦いを捉え直そうとするものである。すでに読者は気づいていると思うが、本書では「インパール作戦」ではなく、あえて「インパールの戦い」としている。「インパール作戦」と言ってしまうと、どうしても日本側からの視点が主になってしまいがちという考えからだ。日本軍と英印軍を対比させるとともに、インド国民軍やインド北東部の諸部族といった日本では従来取り上げられることが少なかったファクターにも着目することで、この戦いに新たな光を当てたいと考えている。
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イギリスの視点について、ここでもう少し記しておこう。イギリスにとって第二次世界大戦で最も重要だったのは、自国の防衛に直結する欧州戦線だった。だとすれば、激戦には違いないにしても、はるか彼方のインパールなど局地戦にすぎなかったのではないかと考える向きもあろう。しかし、大英帝国としての世界戦略の観点で捉えると、インドという巨大かつ最重要の植民地が東からの脅威に晒されていたことは重大な意味を持っていた。だからこそ、英印軍は一九四二年のビルマ失陥から教訓を得て、次の日本軍との戦い、すなわちインドを防衛し攻勢に転じるべく、あらゆる面で対策を講じたのだった。インパールの戦いが「グレイテスト・バトル」に選ばれた理由はそこにもあるのではないか。こうした問題意識は本書全体を貫くものであるが、「完全版」と銘打ち加筆した新章では、イギリスが作戦時に情報戦をどう展開したか、そして戦勝後も日本のビルマ方面軍幹部への聞き取り等を通じて一連の戦いを徹底的に分析していたのかを詳述した。イギリスがこの戦いを世界戦略の一環として、いかに重視していたのかが分かってもらえるだろう。
「序章 かつての激戦地に立って」より






