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世界に誇れる日本人の肖像

出典 : #文春新書
ジャンル : #随筆・エッセイ

藤原正彦の代表的日本人

藤原正彦

藤原正彦の代表的日本人

藤原正彦

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 内村鑑三は日清戦争の始まった明治二十七年(一八九四年)、『代表的日本人』を英語で著した。日本が欧米列強に肩を並べようと近代化に邁進していた明治時代、西洋人が日本人を見る目はまだ差別的で、ロシアのニコライ二世などは「黄色い猿」と呼んでいたほどだった。アメリカも同様だったから、そこへ留学した内村は幾多の悔しい思いを経験したはずである。この留学を通し内村は、夢にまで見たキリスト教国アメリカより、異教国日本の方がはるかに道徳が行き渡っているということを知って衝撃を受けた。欧米人の日本蔑視は、鎖国を解いて間もない有色人種国日本の目覚ましい発展を目の当たりにした欧米諸国が、白人優位を脅かすのではという不安に駆られた結果であった。

 この不安は日清戦争後には黄禍論にまで発展した。そんな中で内村は、日本人を盲目的な忠誠心と極端な愛国心に彩られた小賢しく好戦的な人々、と一面的に捉える欧米人に、日本にもキリスト教文明に勝るとも劣らない深い精神性が存在することを理解させよう、という思いで『代表的日本人』を著したのであった。そこで取り上げたのは西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の五人であった。

 本書において、私は代表的日本人として、「日本人」の美質を体現した人という観点に立ち、江戸時代から二人、明治時代から三人を選んだ。観点をこのように絞っても、代表的日本人は選ぶ者によって千差万別となろう。本書の五人は、私が独断で選んだ五人である。日本人らしい日本人、すなわち勇気、正義感、創造性、郷土愛と祖国愛、そして何より惻隠の情などを中心に人物を選んだつもりである。江戸からは和算家の関孝和、米沢藩主の上杉鷹山、そして明治からは近代日本の先導者福沢諭吉、日露戦争時の隠れたヒロイン河原操子、会津人を全うした柴五郎である。五人とも、日本人の美質を十二分に発揮し、海外からも高く評価された人々である。

 関孝和は元禄時代に、四世紀も前の元時代の中国数学を学び、そこから出発して、明、清時代の中国をはるかに追い抜き、部分的には西欧数学を凌駕するまで、ほとんど独力で切り拓いた独創的天才である。世界中の理工系の大学一年生は、線形代数学で習う行列式はドイツの天才ライプニッツの発見したものと教わるが、実はその十年前に関孝和が発見して使っていたものだった。日本人の数学好きという美質には、安土桃山時代に来日した宣教師も驚嘆し、ローマのイエズス会本部に「日本に来る宣教師は、来日前に数学を勉強させるように」と書き送ったほどである。吉田光由の著した算学書『塵劫記』が、江戸時代に四百種をこえる類書が刊行されるベストセラーとなったのもその表れである。数学の本がベストセラーになったのは古今東西未曾有であろう。関孝和を筆頭とする和算家が全国にいて、庶民にまで数学が広がっていたのである。このおかげで日本の庶民は江戸時代、識字率ばかりでなく数学能力においても世界で図抜けていた。この土台があったからこそ、明治になって西洋の進んだ科学技術を、他の非西洋諸国とは違い瞬く間に吸収することが可能となり、帝国主義の吹き荒れる中で、欧米の植民地となるのを回避できたのであった。関孝和は「数学好き」と「独創性」という日本人の美質を存分に示してくれた人物であった。

 上杉鷹山は江戸中期の米沢藩主である。鷹山は「治者は民の父母」をモットーに、武士道精神、とりわけ惻隠に満ちた政治を行なった人である。現在、世界のどこの国に、こんな首相や大統領がいるだろうか。上杉鷹山を思うと、アメリカの喧伝する民主主義が色褪せたものにさえ見える。

 

 明治時代の三人は、日本人の美質に加え、明治の時代精神を体現した人を選んだ。明治の時代精神とは、第一に国家的精神である。国家と自己との一体感である。明治の人にとって国家はすでにでき上がったものでなく、維新の動乱以来、その形成過程を目撃し、それによる変化を実体験しているから、自分が国家形成に参加した当事者の気分でいた。だから日清戦争勝利後に三国干渉を受け、せっかくとった遼東半島を返還させられた時は、皆が悔し涙をこぼし、一九〇二年に日英同盟が結ばれた時は、日本中が嬉しさのあまり門に日の丸を飾ったのである。日清日露の両戦役はもちろん、欧米各国との間に結ばれた不平等条約の改正とか自由民権運動などに関しても、すべての国民が傍観者ではなく、当事者としての強い関心を持っていたのだった。

 この国家精神はナショナリズムに近いものであったが、帝国主義の吹きすさぶ当時において、日本の独立自尊のためには仕方ないものであった。キリスト者の内村鑑三も、社会主義者の幸徳秋水も熱烈な愛国者であった。

 第二に進取の気性である。文明開化は、国家が欧米の進んだ科学技術や社会制度などを取り入れたばかりでなく、封建時代の身分制度をはじめとする閉塞感から解放された個人が、新しいことに挑戦し始めた時代でもあった。

 第三が武士道精神である。武士は消滅したが、明治になっても武士道精神は残った。すなわち誠実、勇気、惻隠、卑怯を憎む心、名誉と恥の意識、献身などである。これらはおそらく縄文時代からの日本人の道徳の中核だったから、維新という体制の大激変にもかかわらず残ったのである。この三つは日本人の美質でもあるから、これらを体現した人として、誰でも知る福沢諭吉、余り知られていない柴五郎、ほとんど知られていない河原操子を選んだ。

 内村鑑三は『代表的日本人』を、日本人を見下す外国の人々に、日本人の深い精神性を理解してもらいたいとの思いから執筆したが、私は本書を、人間にとって最も大切といえる道徳において、周回遅れで前に見える欧米を、見上げてばかりいる日本の人々に、日本人の美質を思い起こしてもらいたいとの思いから執筆した。それを体現した人々の苦闘と栄光を知ることで、占領軍によりズタズタにされた祖国への自信と誇りを取り戻すきっかけになればと思う。十九世紀の英国人社会思想家サミュエル・スマイルズの言葉を思い出す。

「国家とか国民は、自分たちが輝かしい民族に属するという感情により力強く支えられるものである」


「はじめに」より

文春新書
藤原正彦の代表的日本人
藤原正彦

定価:990円(税込)発売日:2024年07月19日

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発売日:2024年07月19日

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