元財務官、アジア開発銀行総裁の著者が、円安に対する為替介入やウクライナ侵攻に際しての対ロシア制裁決定の裏側を描き、大反響を呼んだ『世界金融秘録』。そのなかから、二〇二三年、著者が財務官として、戦時下のキーウで行ったウクライナとの財務協議の一場面を紹介する。
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防弾車の定員は四人
二〇二三年八月一日、ウクライナとの国境にあるポーランドの街プシェミシルで我々は飲食物を買い集め、夜行列車に乗り込んだ。駅はポーランドに避難しているウクライナ人の一時帰国らしき乗客であふれていたが、混乱はなかった。
同行者は財務省のT課長、S参事官、N課長補佐、そして私【財務官】の総勢四名だ。旅費の節約と、何よりもウクライナで乗る防弾車の定員からこの四名に絞り込んだ。片道十五時間ほど、食料どころか水もないので、駅前で買い込んだのだ。車中には冷暖房も勿論ない。あまりの暑さで、乗車直後に背広からTシャツ短パンの軽装に着替えた。
各国首脳らVIPによるキーウ訪問はそれまでも少なからずあったが、先方によれば事務方責任者の訪問は初めてだそうで、ましてや、財務協議をキーウでやるのも初めてだった。セキュリティの観点からの秘密厳守はさることながら、初めて尽くしで、私の出張を支援してくれる財務官室と参事官室の準備は多忙を極めた。この列車は、誰でも乗れる一般の車両で、N課長補佐がインターネットで予約してくれた。
列車は、他の電車とのすれ違いのためか、ミサイル攻撃を避けるためか、理由はわからないが、時々、止まったりしながら、キーウに向けて進んだ。インターネットは殆ど使えなかったので、主に書類を使って仕事をしたが、つながるときでも、パソコンのキーボードで入力したものと違う文字がスクリーンに現れるなどの障害が発生。ウクライナが攻撃防止のためにジャミング(特殊な電波による電子機器の妨害)してくれているのかと、勝手に想像した。キーウに近づくと通信環境が格段に良くなった。プロバイダーの表示を見ると、イーロン・マスクのスターリンクだった。
「まあ、きっとうまくいくよ」
根拠があるわけではないが、そう同行者達と話した。生命の危険も指摘されていたが、役人としてはそれ以上に、事前に日程も確定しておらず、また、過去にない試みということで日本からの支援に対するウクライナ側の期待が極めて高い一方、当方ができることには当然ながら限界があるので、うまく合意できるかも全くわからないところがあった。同行者も皆、認識していたリスクであったが、立派な仲間であり、お互い明るくふるまっていた。
何度も防空壕に避難した
早朝五時にキーウに着き、ホテル・キーウに向かった。ホテルに着くと早速、空襲警報だ。事前に公用携帯電話にインストールしていた二つの警報アプリは何度も発動したし、ホテルの館内放送でも警報発令が何度も伝えられ、そのたびに、階段を下りて地下の防空壕に向かった。防空壕は殺風景で、大量のペットボトルの水が備蓄されていた。ホテルの近くの茂みに地対空ミサイル「パトリオット」が二基あって、直撃の確率は軽減されているが、迎撃したミサイルの破片などでの被害は覚悟した方がいいと聞いていたので、素直に避難した。
ウクライナ財務省に向かい、親友のセルヒー・マルチェンコ財務大臣達と、初めての日・ウクライナ財務協議を行った。政府の庁舎周辺の車道には、まっすぐに進めないよう随所にバリケードが置かれ、庁舎の入口や廊下には土嚢が積まれていた。一時、首都陥落のリスクがあったわけで、未だ、その緊張感が残っていた。セルヒー達と二時間、真剣に政策を議論し、極めて有意義な結果が成果文書にまとめられた。
会議後、史上初の成果文書を公表できたが、非常に活発な議論の結果、様々な政策協力の合意が含まれる内容となった。私の三つの当初の出張目的、即ち、日本からウクライナへの揺るぎない支援を明確にすること、支援を効果的、効率的にするため現場の状況を把握すること、そして、二〇二三年のG7議長国としてウクライナ支援を主導するための知見と正当性を確保することは十分、達成できた。
その後、ユリヤ・スヴィリデンコ第一副首相(その後、二〇二五年七月に首相に昇格)など要人に面会し、また、ロシアに襲撃され、多数が虐殺されたブチャを訪れた。ブチャ市長や聖アンドリーイ教会の司祭に案内され、悲惨な現状を目にした。犠牲者の慰霊碑に献花しつつ、不正、不法を許さず、正義を回復すべきであり、決して暴力が支配する時代に戻してはならないという思いを新たにした。キーウへの帰路、首都まで二十キロに迫ったロシアの戦車の進攻を止めるために爆破した橋梁など、戦争の傷跡を感じる場所も案内してもらい、当時の緊迫した状況を想像した。
キーウから夜行列車でポーランドに戻り、同国のマグダレーナ・ジェチコフスカ財務大臣等と面会して帰国した。当初は、対ロシア最前線のリトアニアとモルドバに回ることも考えたが、国内での急務が蓄積したため、この両国に行けたのは一年後の二〇二四年六月となった。








