累計30万部を突破した大人気シリーズ「幽世の薬剤師」の著者・紺野天龍さんによる最新刊『最後の薬師 白蓮と死の呪い』が発売になりました。
はらぺこ薬師・蓮珠(れんじゅ)と苦労人の陰陽師・晴藍(せいらん)。国から追われる二人が辿り着いたのは、独自の「蛙信仰」が根付いた隠れ里で――。

今回の発売を記念して、序章と第一章の冒頭を公開します。
蓮珠・晴藍コンビを捕らえるべく、陰陽寮に集まった刺客たちにも注目です。


序章  円卓会議

 あの人に初めて会った日も、こんな気の滅入(めい)る空模様だった。

 透廊(すいろう)の真ん中で足を止めた玉華(ぎょくか)は、何気なく外に目を向ける。

 夜半から降り続いた雨は未だ止まず、雲は淡い鉛色(なまりいろ)のまま低く垂れこめていた。白く霞掛(かすみが)かった庭は、季節外れの長雨のためか元気がないように見える。しとどに()れた若い草木も、葉を濡らす露の重さに(こうべ)を垂れていた。

 まるで己の心象を映しているみたいで、(いささ)か居心地が悪い。

 逃れるように、感情を遮断して目を閉じる。

 雨を見ると、彼女はいつもあの日のことを思い出す。

 

 もうどれほど昔のことになるだろうか。まだ世の中のことを何も知らず、毎日を楽しく、当たり前に過ごしていた幼き頃。

 あの人は突然、屋敷にやって来た。

 姉と二人で出掛けていた先で雨に降られたため、急いで姉を屋敷まで送り届けてくれたらしい。二人ともびしょ濡れだった。

 (つま)()の先に立ったその人は、雨で額に張り付いた髪を整えてから、屈み込んで玉華と目を合わせた。

「──姉君に寒い思いをさせて申し訳ない。風邪でも引いたら事だ。どうか暖かくしてやってくれ」

 間近で顔を見た瞬間、玉華は驚いて固まってしまった。

 それは女の人のように綺麗な顔をした──男の人だった。

 玉華の知る男の人は、大きな身体と浅黒い肌をした荒々しい存在であり、引っ込み思案の彼女にとっては恐怖の対象ですらあった。

 ところがその人は……父を始め、今まで見たどの男の人とも違っていた。

 まず背は高いが細身でどこか頼りなく、威圧的な雰囲気はない。加えて目を引くのは、さらりと揺れる(うるわ)しい黒髪と、陶磁器のように滑らかな白い肌。初めは綺麗な女の人だと思ったのに、それを否定するように低い声が吐息混じりに甘く響く。

 訳がわからなくなって、目を丸くしたまま言葉を失う。固まる身体とは裏腹に、(しん)(ぞう)は破裂しそうなほど高鳴っていた。

 何も答えない玉華に、その人は不思議そうな顔を向けた。

「──ごめんなさい、(せい)(らん)。玉華は人見知りなの」

 気遣うような姉の言葉でようやく我に返った彼女は、顔を真っ赤にして駆け出した。何故かとても気恥ずかしくなり、それ以上その場にいられなかった。

 涙目で透廊を走りながらも、姉の声が頭の中で何度も繰り返し響いていた。

 ──晴藍。

 おそらくあの人の名前なのだろう。その声には親愛が()もっていたから、きっと姉にとってとても大切な人に違いない。

 そう思ったとき、不意にズキンと胸が痛くなった。慌てて立ち止まり、胸に手を当ててみる。心の臓は相変わらず高鳴っているが、痛みのようなものは感じない。

 きっと気のせいなのだと思う。でも、晴藍の顔と姉の親しげな声が頭から離れず、何だか胸のあたりがもやもやする。

 大好きな姉を晴藍に取られてしまうことを心配しているのか。あるいは──。

 何とも言えない心持ちから意識を()らすように、庭に目を向ける。

 しとしとと、蓬莱(ほうらい)の大地を湿らせるような雨が続いている。

 軒先から落ちた(しずく)が、庭先の岩を打った。

 

 ──静けさの中に響く細い律動に気づいて、玉華は双眸(そうぼう)を開く。

 目を閉じていたのは一瞬のことなのに……随分と昔のことを思い出してしまった。

 忘れたいのに、絶対に忘れられない思い出。

 ため息を(こぼ)して周囲に目を向けると、軒先から落ちた雫が庭先の岩を打っているのが見えた。心地よくも、どこかもどかしさを覚える音色。

 心が乱れているときに聞き続けたら不安になりそうだ、と意識を遮断して再び歩き始める。

 陰陽寮(おんみょうりょう)の透廊は、湿気をはらんだ空気に包まれ、板敷きはしっとりと黒みを帯びていた。冷たく湿った床に、足取りは自然と重たくなる。幾重にも重ねて(まと)った衣も、湿気を含んで普段よりも重く動きづらい。

 春浅い時節を映すような梅の淡紅、萌え出ずる若葉の緑、霞を思わせる白の五衣(いつつぎぬ)が、襟元や袖口から覗く。薄藤の唐衣(からぎぬ)は、銀糸で唐草を織り出し、所々に桜を散らしたお気に入りのものだったが、普段は上がる気持ちも今日ばかりはなりを潜めて沈んでいる。

 足取りが重いのは、天気のせいばかりでなく、実際に気が進まないためでもある。

 だが、たとえどれほど気が進まずとも、やらねばならぬことは山ほどあるのだ。子どもの頃のように逃げ出すわけにはいかない。またため息を零して気を取り直してから、玉華は足を速める。

 目的の奥の間に到着した。足を止め、心を静めるように一度深く呼吸をしてから中へ入る。

 御簾(み す)を二重に垂らした室内は薄暗く、外の気配が完全に断たれている。中央に置かれた巨大な円卓。同時に十三名が着けるよう(しつら)えられたそれには、しかし五名の人影しか確認できない。半数以下の集まり。急な招集とはいえ、自身の人徳の無さを現しているようでまた気が滅入る。

「──よォ、随分のんびりしたご到着だな、陰陽頭(おんみょうのかみ)殿」

 円卓の一席から下卑(げび)た声が上がる。顔を(しか)めそうになるが、どうにか堪える。

「……待たせてごめんなさい。早速始めましょう」

 手近な席に腰を下ろす玉華。円卓に指定席はない。

 円は天。中央に北辰(ほくしん)。それを囲む者は星辰(せいしん)にあたり、上下の区別などない──という思想の元に考案された〈十二天将(てんしょう)〉のための密議場である。

 陰陽師(おんみょうじ)──それは世界に流れる〈気〉の流れを読み解き、現世(うつしよ)(ことわり)を操る特別な才を持つ者。陰陽寮は、そのような陰陽師を育成、管理するための国家機関である。

 陰陽頭はその(いただき)であり、〈十二天将〉は陰陽師の中でも取り分け優れた力を持つ者を集めた、陰陽頭直下の実働部隊になる。

 不幸な巡り合わせにより彼らを()べる陰陽頭となった玉華だが……実質的な立場は皆とそう変わらない。〈十二天将〉は、陰陽頭の命に忠実に従う部下、という都合のよいものではないのである。つい数日まえまで、彼女も〈十二天将〉の一員だったのだ。急に立場が変わって、皆も対応に苦慮しているはずだ。

 御簾の内側には結界が張られているため、ここでの会話が外に漏れることはない。玉華は円卓に着いた者たちを一度見回し、(わず)かに声を張った。

「突然の招集に応えてくれてありがとう。状況の共有と、今後の対応についての意見交換を行います」

「──そのまえに()びの一つでもあったほうがいいんじゃないか、玉華」

 再び上がった揶揄(や ゆ)するような声。さすがに無視もできず、玉華は視線を移す。

 玉華の向かいに座っていたのは、声のとおり品のない恰好をした女だった。上等な紫の装束をだらしなく肩口まではだけ、豊満な胸元を惜しげもなく衆目に(さら)している。見ようによっては婀娜(あだ)っぽいとも取れなくはないのだろうが、玉華からすれば不真面目で下品な恰好としか思えない。過去に何度か注意をしたこともあったが、一向に改善されなかったのでもう諦めた。

 女──()(らん)は、獲物を甚振(いたぶ)る蛇のように冷たく、そして嗜虐的(しぎゃくてき)な目でこちらを見つめている。反発したところで意味もないと判断し、玉華は素直に立ち上がる。

「……確かにそうね。今回は私の不手際から皆に迷惑を掛けてしまった。本当に……ごめんなさい」

 頭を下げると、慌てた様子ですぐ隣から声が上がった。

「そんな! 玉華様の責任ではありません! どうか頭をお上げください!」

 声の主は、最年少の〈十二天将〉──花風(かふう)だ。十八とまだ若く、〈十二天将〉に入ってからふた月と経っていない。まだ新しい国風文化に慣れていないのか、真新しい薄桃の唐衣を自信なげに羽織っている。その姿は何とも新鮮で愛らしく、玉華にとってはまさに妹のような存在だった。

 花風に続くように、また別の席からも声が上がる。

「……責任の所在など、今さらどうでもよいわ。問題はこれから我らがどうすればよいか。下らん駆け引きを暢気(のんき)に眺めていられるほど、この老いぼれ、気が長くないのだ。さっさと話を進めてくれ」

 年長の老爺(ろうや)──雲柳(うんりゅう)は、長い白ひげを()でながら面倒くさそうに言う。さすがの紫蘭も降参とばかりにわざとらしく諸手を挙げて口を(つぐ)む。相変わらず人の神経を逆撫でする仕草で苛立(いら だ)ちは募るが、これでしばらく邪魔は入らないと判断して、玉華は話を進める。

「──では、早速本題に入るわ。事の起こりは、今から七日まえ。皇都に薬師(くすし)が現れたことに始まる」

 あらましは皆すでに知っているのだろうが、微かな驚きの反応があった。

 それほどの──異常事態。

 神国蓬莱において、薬師は生きていてはならない存在(・・・・・・・・・・・・・・・)なのだから。

「薬師の名は、蓮珠(れんじゅ)。〈幽谷(ゆうこく)〉の生き残りの娘らしいわ」

 幽谷とは、かつて蓬莱の地に存在した、薬師たちの隠里(かくれざと)だ。

 神々の大地、蓬莱において発生するあらゆる自然現象は神の御業(みわざ)である。それは当然、病でさえ例外ではなく、薬によって病を治す行為は、神の御業を人の(ごう)によって冒涜(ぼうとく)することに等しい──。

 神と人の関係を重視し、改めて見直すこととした今上(きんじょう)天子が発令した〈薬師排斥令〉。これによって、骨折時の添え木など一部の技術的なものを除き、ほぼすべての医術は禁止され、薬師は廃業を余儀なくされた。

 ところが、〈医術の聖地〉とまで呼ばれていた幽谷だけは、最後までその令に抗い続け──結果的に滅んでしまった。

「……幽谷、か」

 雲柳が忌々(いまいま)しげに呟いた。

「まさか再びその名を聞くことになろうとはな。因果なものよ……」

「そういえば、雲柳殿は〈幽谷征伐〉に参加されたのでしたな」

 別の席の中年の男が声を上げた。男の名は()(とく)曲者(くせもの)揃いの〈十二天将〉の中では、群を抜いて真面目で誠実な男だ。玉華も(あつ)い信頼を置いている。

 幽谷征伐は、天子の命により当時の〈十二天将〉数名によって行われた。古参の雲柳はそのときの一人になる。

「かなり凄惨(せいさん)な現場であったと聞き及んでおりますが……雲柳殿は、その娘が本当に生き残りなのだとお考えなのですか?」

「さてな。今さらどちらでもよいことだが……よもやあの地獄を本当に生き延びたとしたら幸運なことだ」

「それもまた天命でしょう。大人しく生きていればよかったものを……死に急ぐとは愚かな」

 雲柳の言葉を()み締めるように、深々と頷いて腕を組む李徳。

 李徳の言うことにも一理ある。

 幽谷征伐を奇跡的な幸運で生き延びられたのであれば、その命を大切にして静かに暮らせばよかったのだ。にもかかわらず皇都の往来で、それも大勢の人の見ている前で薬草を用いた治療を行うなど……死に急ぎ以外の何ものでもない。

 玉華は、どこか超然とした娘の顔を思い出して苦々しく思う。

「……蓮珠には、天子様御自ら死罪を言い渡したわ。ところが……その後、蓮珠は牢から逃げ出した。そしてそれを手引きしたのが……晴藍だった」

兄者(あにじゃ)咎人(とがびと)(かば)うなど信じられません!」

 卓を叩き、身を乗り出すように立ち上がったのは、軽装の若い男だった。陰陽師というより拳法家というほうが似合う、ぴたりと身体に合った薄手の装束を(まと)っている。決して筋肉質ではないが、細身で均整の取れた体付きをしている。

 男の名は(こう)()。真面目で正義感が強く、晴藍のことを兄のように慕っていた。

 だからこそ、晴藍の造反が信じられないのだろう。

「兄者はこれまで誰よりも真剣にこの国を想い、陰陽頭としての責務を果たして来ました! きっとその娘に(たぶら)かされたんだ!」

「あの色男が、今さら小娘一人に誑かされるわけねえだろ」紫蘭がせせら笑う。「初めっから天子様に反旗を(ひるがえ)す心積もりでいたのさ。まったく、とんだ傾国の美女がいたもんだ」

「貴様……!」怒りに震え顔を赤くする紅飛。「兄者を侮辱する気か!」

「侮辱? むしろ俺は()(たた)えてるくらいさ。つまらん奴だと思っていたが、存外気骨があるってもんだ。第一、考えてもみろ。小娘に誑かされた可能性は低い。その上、何らかの術で意にそぐわぬ形で操られた可能性はさらに低い。なら、自分の判断で皇都を裏切ったと考えるのが自然だろう。それとも何か? あの稀代の天才陰陽師を操れるほどの天才が他にいたってか?」

 挑発するように口角を吊り上げる紫蘭。紅飛は拳を固めたまま震えていたが、何も言わずに腰を下ろした。乱暴な言い草ではあったが、理屈は通っていると判断したのだろう。

 晴藍は、史上最年少で〈十二天将〉入りを果たした筋金入りの天才だ。それは数日まえまで陰陽頭であった彼の(もと)にいた〈十二天将〉の全員が認めるところであり、そんな彼が誰かの術で操られて反旗を翻したとは考えにくい、というのはある種共通の理解になるのだろう。玉華もまた、同様の意見だ。

「──話を戻すわ。ともあれ現在、晴藍は蓮珠を連れて西へ向かって逃げている。我々の今後の方針は極めて単純。晴藍と蓮珠を捕らえてここ皇都に連れ戻すこと。ただし、どちらも必ず生きた状態で。これは勅命(ちょくめい)よ」

「……まったく、聖上も無茶をおっしゃる」頭を抱えて首を振る李徳。「話ができる余地があるのは幸いだが、場合によっては戦うことにもなろうに……その場合、どうやってあの晴藍殿を無力化しろというのか」

「少なくとも(わし)には無理だな。奇襲で殺すことなら如何様(いかよう)にでもなろうが……まともに戦って勝てる相手ではない。儂は下りるから、あとは若い皆でどうにかしてくれ」

 興が()がれた様子でぞんざいに片手を振る雲柳。確かにまともに戦って勝てる相手ではないし、高齢の雲柳にそれを求めるのも酷だが、だからといって非協力的な態度は困る。これは勅命なのだから、果たせなければ陰陽寮の存続にも関わる危機だ。

 だが──、と玉華は別のことを考える。

 奇襲で殺すことなら如何様にでもなる、というのは、果たして本当だろうか。

 彼女はつい先日、晴藍と戦ったときのことを思い出す。何らかの理由で手負いだった晴藍に対し、万全の状態かつ本気で挑んだ玉華は、終始彼を圧倒していた。だから、ある程度条件さえ整えば、彼を無力化することは可能だろうとは思う。

 ところがその直後、ちょっとした事故により致命傷を負った彼は、何事もなかったように傷を()やし、玉華を撃退した──。

 あのときの晴藍の様子が、ずっと引っ掛かっていた。陰陽術にも傷を癒やす術は存在するが、あれはそのいずれとも異なる反応だったような気がしてならないのだ。

 まるで致命傷を負ったという事実そのものがなくなってしまった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ような……不可解な回復。世界の理に反する行い……すなわちそれは、禁忌(きんき)だ。

晴藍が国によって禁じられている陰陽術の禁忌に手を出してしまったのではないか──そんな荒唐無稽(こうとうむけい)な不安が頭の片隅から消えない。

 加えて、同行していた未知の白いツクモ。

(……晴藍。いったい、あなたに何があったというの)

 心の中で投げ掛け続けるも、当然答えは返ってこない。

 とにかく、改めて晴藍から話を聞く必要がある。そのためには、彼や蓮珠を殺してしまうのは都合が悪いので、そういう意味では天子の勅命も玉華にとってありがたくはあった。

「……あの、一つ質問をよろしいでしょうか」

 ここまで口を噤んで話を聞いていた花風が、()()ずと片手を挙げる。玉華は視線だけで先を促す。

「ええと、その……晴藍様がその蓮珠さんと行動を共にしている現状は理解できましたが……そもそも何が目的なのでしょう? 咎人を庇う、ということであれば、あるいはお優しい晴藍様ならば同情心からそれを為すこともあろうかと思うのですが……」

 確かにそれは玉華も気になっていた。一時の気の迷いで、天子の命に逆らって咎人を逃がすことくらいは、お人好しかつその無茶をやり通せるだけの力を持った晴藍ならばやりかねない。だが、逃がしたあとも行動を共にし続けるというのは、どうにもよくわからない。

「単純に、その小娘に恋をして添い遂げようとしてるだけじゃないのか?」

 また小馬鹿にしたような紫蘭の嘲笑(ちょうしょう)が響く。

「男が女と行動を共にする理由なんざ、それくらいしかないだろう。いいじゃないか、難攻不落と(うた)われた色男にも、ついにいい人(・・・)が見つかったんだ。元部下として、祝福くらいはしてやってもばちは当たらんさ。まあ、それが幼女趣味だったってのは、些か興醒(きょうざ)め──」

 皆まで言い終わる前に、音もなく立ち上がった花風は、腰に帯びた古めかしい匕首(あいくち)を抜いて、その切先を真っ直ぐ紫蘭へ向けていた。

「──紫蘭様。これ以上晴藍様を侮辱すると……後悔なさいますよ」

 底冷えするような感情の籠もらない花風の声に、周囲の温度が僅かに下がった。玉華は晴藍を取り逃がしてしまった負い目もあり、紫蘭の軽口を相手にしないことにしていたが……それが裏目に出てしまった。紫蘭の軽薄な物言いに慣れた玉華たちには聞き流すことができても、それをまだ経験の浅い花風や紅飛も聞き流せるとは限らない。

 しかし、渦中の紫蘭は相変わらず下卑た笑みを浮かべながらわざとらしく肩を(すく)める。

「おお、怖い怖い。わかったわかった、冗談だよ。もうお嬢ちゃんの大好きな晴藍様を愚弄(ぐろう)するのは止めるから、そのヤッパを収めてくれ。怖すぎてお姉さん、ちびっちゃうぜ」

 まるで反省の見えない言葉。下手をすれば刃傷沙汰(にんじょうざた)になりかねないので、さすがに玉華が割って入る。

「……そこまでにしなさい。花風も、刃を収めて。まだ話の途中よ」

 飼い主から叱られた仔犬のような顔で玉華を見つめる花風だったが、失礼しました、とすぐに言われるまま腰を下ろす。大事にならなくてよかった、と玉華も胸を撫で下ろして話を進める。

「私の考えでは、蓮珠を逃がすことが晴藍の目的ではないと思うの。どちらかというと……蓮珠の目的に対して、晴藍が手を貸しているような印象を受けたわ」

「兄者が……手を貸している?」首を傾げる紅飛。「人のいい兄者であれば、困っている人に手を貸すのは自然なように思いますが……ならば、その娘の目的というのは何なのですか?」

「それは……現状ではわからないわ。ただ、蓮珠がまず皇都から西へ向かったのは、西の村で起きていた疫病を解決するためだったのは間違いないと思う」

 晴藍を追って向かった西の集落で蓮珠と再会したとき、彼女はこれは自分の()(まま)なのだ、と言っていた。あのときの蓮珠の真剣な眼差しには、一切の嘘がなかった。だから一つの事実であると断じていいだろう。

「つまり、その娘は最後の薬師として、国中の疫病を治療するために逃げ回っており、兄者はそれに協力している、と?」

「晴藍殿ならば……あり得るか」李徳が神妙な顔で言った。「晴藍殿は、〈幽谷征伐〉に加わったお方。勅命とはいえ、意にそぐわぬことだったに違いない。なればこそ、贖罪(しょくざい)の気持ちで、幽谷の生き残りの娘に従っているとすれば……一連の不可解な動きも理解できよう」

「確かにお優しい晴藍様ならばあり得ますね」花風も同意する。

 玉華も(おおむ)ね李徳の意見には賛成だ。確実とまでは言い難いが、現実的な方針としては十分だろう。

「つまり今後彼らが向かうとすれば……病の噂が立っているところの可能性が高いわね。一旦、その線で情報を集めましょう。異論がある者はいる?」

 改めて一同を見回す。すると案の定、紫蘭が軽薄に手を振っていた。

「情報収集なんてまどろっこしい真似、俺には無理なんで、こっちはこっちで勝手に動かせてもらうぜ。最終的に、晴藍をここに引っ立てりゃ文句もねえだろ」

「……何か当てはあるのかしら?」

「──さてな。手柄を横取りされちゃ堪んねえ。(さか)しいあんたらは仲よく情報でも何でも集めてな。どうせこの長雨じゃあ、大した情報も集まらねえだろうがね」

 じゃあな、と腰掛けから立ち上がり、玉華の制止も無視して紫蘭は奥の間を出て行った。その背中を見送った雲柳が、やれやれ、とため息を吐く。

「……とんだじゃじゃ馬だ。しかも、それを見過ごさざるを得ないだけの腕があるから余計に始末が悪い。まあ、いずれにせよ今儂らにできることは多くない。情報収集くらいならば……儂も協力しよう」

「ありがとうございます」

 感謝を述べてから、一旦散会とする。皆が思い思いに奥の間を出る中、花風だけが居残った。どうやら玉華に話があるらしい。

「どうしたの?」

 先ほどまでとは異なる、普段どおりの穏やかな調子で声を掛けると、花風は深刻そうに眉根を寄せて、玉華様、と尋ねた。

「晴藍様は……また陰陽寮に戻って来られますよね……?」

「──」

 返答に困り、一瞬口ごもる。

 陰陽寮に戻る──つまり、晴藍が再び国家陰陽師として仕事に就くことを花風は望んでいるのだろう。だが、果たしてそのようなことが本当に可能なのかは現実的に考えて疑問が残る。

 事実上、晴藍は天子の勅命を無視しており、さらに死罪を言い渡された大罪人と自らの意思で行動を共にしていることになる。

 どのような事情があるにせよ、その事実が曲げられない以上、晴藍には何かしらの沙汰が下されることになる。これがただの役人であれば、国外追放や僻地(へきち)への左遷なども考えられるが……問題は、晴藍が蓬莱最強の陰陽師として名高いところだ。

 国外追放になどしたら、蓬莱の陰陽術における様々な技術が他国に流出するという大惨事を招くし、僻地へ異動させても似たようなことは十分に起こりうる。

 つまり晴藍という不世出の才能をこの国に縛っておくには、中央で要職に就かせる以外に穏当な道はないわけだが……。しかし、出戻った晴藍を再び中央の要職に就かせようものならば、今度は内側からの反発を招くことは必至だ。

 ならば、あらゆる面倒事を避ける意味でも、死罪とするのが現実的には妥当なのだが……天子がどこまで先を見通しているのかは、玉華にはわからない。

 だから、花風を安心させるためにもせめて希望的な意見を述べておく。

「──そうね。晴藍が無事にここに戻って来られるよう、いざとなれば私たちで内侍(ないしの)(つかさ)に進言しましょう。瑞鳳(ずいほう)様だって、晴藍ほどの人材を無闇に手放すほど愚かではないわ」

「はい! その折には、是非私もご同行させていただきます!」

 暗い表情から、ぱっと目を輝かせる花風。その眩しいばかりの若さを、玉華は直視できなくて、ふいと視線を逸らして立ち上がる。

「さあ、時間が惜しいわ。普段の仕事も山積みなのだから、きびきび働きましょう」

 一方的に会話を打ち切って、玉華は足早に奥の間を後にする。

 来た道を戻るよう透廊を歩きながら、ふと庭に視線を移す。

 鈍色(にびいろ)の空を映した池に、幾筋もの雨が滴り落ちている。

 げこ、とどこかで(かえる)が鳴いた。

 

第一章 土着の神

 

「あっ! 晴藍(せいらん)様、蛙ですよ、蛙!」

 壁に空いた開口部から退屈そうに外を眺めていた蓮珠(れんじゅ)は、雨に濡れるのも構わず小屋を飛び出して行く。同じく、特にやることもなく暇を持て余していた晴藍は、駆け出した蓮珠を止めるわけでもなくぼんやりと眺める。

 気の滅入るような状況だというのに元気なことだ、と半分呆れていると、蓮珠はすぐに戻ってきた。

「立派な子でした。はい」

 笑顔の蓮珠が、蛙を両手で(つか)んで目の前に差し出してきた。

「えぇ……」

 さすがに予想もしていなかったので、晴藍は少し引く。でっぷりとした身体に短い足の生えた蛙だった。濃い土色の体表にぼつぼつと無数のいぼのような突起がある。おそらく蟇蛙(ひきがえる)だろう。

 子どもの頃は何とも思わなかったが、大人になってから改めて見ると大層気色悪い。

 蓮珠の意図がわからず困惑する。

「……まさか食べるつもりか?」

 戦慄(せんりつ)する晴藍。しかし、蓮珠は、いいえと首を振る。

「いざとなれば美味しくいただきますけど、今はまだそれほど食料事情も深刻ではありません。ただ、申し訳ないのですが、少しこの子を持っていていただいてもよろしいですか」

「えぇ……」

 嫌だ、ということを全力で表情に出してみるが、蓮珠は特に気にした様子もなくにこにこしている。下手に躊躇(ちゅうちょ)して、もしかして怖いのですか? などと聞かれても面倒だ。仕方なく晴藍は、差し出された蛙を両手で摑む。

 ずっしりと重たい身体は、見た目以上にぬめぬめしておりしっかり摑んでいないと取り逃がしてしまいそうだった。何とも気色の悪い感触に鳥肌を立てながら、言われるまま暴れる蛙を押さえ続ける。

 蓮珠は、背負いの木箱の中から取り出した竹の(へら)の先で、蛙の顔のあたりを(くすぐ)るように撫で始めた。

 猫じゃらしを使って猫と(たわむ)れるのと、状況的には似たようなものなのかもしれないが、さすがに次元が違いすぎる。蛙よりも蓮珠の奇行のほうが不気味に見えてきた。もしかしたら、閉塞した現状により心を病んでしまったのかもしれない。

「……その、なんだ、蓮珠よ。悩みがあるならば、抱え込まないほうがよい。私でよければいつでも話を聞くぞ」

「急にどうしました?」(いぶか)しげな顔で見上げてくる。「特に悩みもないですけど……。もしかして、おなかが空いてこの子を食べたくなりましたか? どうしてもと仰るなら、(さば)きますが」

「食べんわ……」

 辟易(へきえき)する晴藍。どうやら心を病んで蛙を愛撫(あいぶ)しているわけではないらしい。

「……いったい何をしているのだ?」

「油を採っているのです」

「油?」

 眉を(ひそ)める晴藍の鼻先に、蓮珠は篦を突きつける。篦の先端に乳白色の粘液が僅かに付着しているのが見えた。

「蟇蛙の耳の裏あたりを刺激すると、この白い粘液を分泌します。いわゆる、がまの油、と呼ばれるものですね。これを乾かすと(せん)()という生薬(しょうやく)になります」

 がまの油、という名前は晴藍も聞いたことがあった。

「それが薬になるのか?」

「はい。傷薬にもなるようですが、私の場合主な用途は気付(きつ)けですね。心の臓が止まりそうなときなどに重宝します。舐めてみます?」

 きらきらした顔で篦を差し出してくる蓮珠。晴藍は顔を引きつらせて、今は遠慮しておこう、と答えた。さすがに採れたての蛙の粘液を舐める度胸はない。

 蓮珠は残念そうに唇を尖らせる。

「そう、ですか……。舌が(しび)れてさらにどきどきして不思議な心持ちになれるのですが」

「それはもう毒なのでは……?」

「元々は毒です。蛙には天敵が多いですからね。毒を分泌することで身を守っているのです。でも、毒も薬も同じものですよ。量を調整して使うのです。人間に益のある量が薬、害のある量が毒というだけの話です」

 言われてみればそういうものかもしれない、と思う。

 それから実に楽しそうに、せっせと油の採取作業に戻る蓮珠を見下ろして、こんなことをしている場合ではないのに、と晴藍は小さくため息を吐く。

 

 皇都の西に位置する集落で猛威(もうい)を振るっていた疫病を収束させた翌朝、そのまま集落を発ち一路西へ向かい始めてから、もう五日経つ。

 初日こそ軽快に馬を駆って距離を稼ぐことができたが、二日目の半ば、峠越えの最中に突然の雨雲に(つか)まってしまった。幸いにして、すぐ近くに無人の山小屋があったため事なきを得たが……結局そのまま、もう三日も足止めを()らっている状況だ。

 晴藍の駆る馬は式神──陰陽術によって使役(しえき)される低級神霊である。(しき)()と呼ばれる、紙片に記された呪法で一時的に形を得ているに過ぎず、本体はあくまでも式符だ。

 つまり、紙ゆえに水に弱い。

 そのため雨が降ったら式神は使えず、また泥濘(ぬかる)んだ峠道を自力で歩くのも危険なため、止むなくこのあばら家で雨雲が過ぎ去るのを待っている次第だ。先の集落を()つ際、村長から食料を分けてもらっているのでそれほど逼迫(ひっぱく)した状況ではないが、さりとてのんびりもしていられない。

 晴藍と蓮珠は今、神国蓬莱(ほうらい)の不当な命令に抗って、逃げている最中なのだから──。

 何ともならないままならなさを胸に、晴藍は目の前の娘を改めて見やる。

 深い青の襦裙(じゅくん)(上下で着合わせる衣服)を纏った、小柄な少女。()せぎすでいかにも貧相な身なりではあるが、幼さを残した大きな目には、常に知性と好奇心の光が宿っている。実際、十六という若さながら非常に聡明で、病や薬草に関する知識においては、おそらく国内随一といってよい。

 それもそのはず。蓮珠は幽谷(ゆうこく)と呼ばれた薬師の集落の、最後の生き残りなのだ。

 幽谷が滅んだのは、今から十二年まえ。当時蓮珠はまだ四つと幼かったが、そのとき祖父から薬師のすべてを叩き込まれ──今に至る。

 彼女の努力や苦労を陳腐な一言で表してしまうのも心苦しくはあるが、薬師として天賦(てんぷ)の才があったのだと思う。

 それを示すように、先の集落での疫病騒動を見事解決に導いており、その並外れた知性には晴藍も密かな信頼を寄せていた。

 人懐こく物怖じしない性格だが、妙に頑固なところがあり扱いに困ることも多い。

 ただ不思議な愛嬌(あいきょう)があるので、晴藍は何だかんだ言ってこの娘のことが気に入っていた。

 気に入る、と言ってもそれは異性としての評価ではない。どちらかというと、物珍しい珍獣のような扱いだ。

「……? 晴藍様? 今何か、私の顔を見て失礼なことを考えていませんでしたか?」

 異様に勘が鋭いところも珍獣的だと思う。晴藍は何食わぬ顔で応じる。

「自意識過剰だ。おまえこそ、私の美しい顔に見蕩(みと)れて手が止まっているぞ」

「いえ、これは単純に作業が終わっただけです」

「……」

 皇都の町娘に向ければ確実に黄色い歓声が返ってくる晴藍の言葉にも、蓮珠は()()ない。せめて頬の一つも赤らめてくれれば自尊心も保てるというものだったが、当の蓮珠はいつもの白い顔で不思議そうに首を傾げている。

 大内裏(だいだいり)では傾国の美女とまで(うた)われた晴藍の美貌(びぼう)も、蓮珠相手には形なしだった。正直、これほどまでに晴藍の色香に反応しない彼女の感性はまともではないと思う。だが……まあ、そんな稀有(けう)な感性を持っている相手だからこそ、この無茶な旅路が成立しているとも言える。

 互いに互いを異性として意識せず、一人の人間として信頼し合えなければ、年頃の男女二人で国からの逃避行などまともにできるはずもないのだから。

 蛙をあばら家の外へ逃がしてやり、雨水で十分に手を洗ってから、晴藍は再び板の間に腰を下ろした。

 狭い小屋だ。膝を突き合わせるほど至近距離の真正面、板の間に正座をした蓮珠が上機嫌に採取したばかりの油を薬箱の中に収めていた。ちなみに彼女のお気に入りの(くれない)唐衣(からぎぬ)は、雨に濡れないよう今は大事に仕舞われている。

「……蓮珠よ。少し今後の話をさせてくれ」

「どうしました、改まって」

「どうにもこの空模様だと、今しばらくここに足止めを喰らうことになりそうだ」

 正直な所感を述べると、蓮珠は僅かに目を見開く。陰陽師は星見(ほしみ)だけでなく、天候もある程度は読む訓練を積んでいる。確実なことは言えなかったが、しかし、この長雨が一日二日で止むことはないのはほぼ確実な見通しだった。

 梅雨(つゆ)入りにはまだ早いが、春先でも長雨に見舞われることはままある。

「おまえも知ってのとおり、我々はあまり一所(ひとところ)にのんびりとしていられない身の上だ。今のうちにできるだけ、皇都から離れておきたい。これで我らの報が国中に伝われば、一層動きにくくなるし、〈十二天将〉の追っ手も激しくなるだろう」

「十二天将……」蓮珠は複雑さを滲ませて呟く。「玉華(ぎょくか)様が、また追ってこられるということでしょうか」

「どうかな……。おそらく玉華は今頃、私が陰陽寮を抜けた代わりに陰陽(おんみょう)(のかみ)となっているはずだ。管理職だから基本的に指揮が仕事で、現場に出張ってくることは少ないはずだが……油断はできない」

 数日まえ、玉華の襲撃を受けて死ぬ思いをしたことが脳裏を(よぎ)り、晴藍は顔を(しか)めた。

「……問題は、玉華でなくとも、十二天将の追っ手は油断ならんということだ。皆、元々私が信を置いた優秀な部下だ。戦闘に長けた者もいれば、知略に長けた者もいるので、全員が追っ手となることはないだろうが……誰が来るかは予想できん」

「その追っ手の方は、話が通じる相手なのでしょうか」

「話の通じる者もいれば、全く話の通じない者もいる。あの玉華が比較的話の通じる側に入ることを思えば……まあ、余計な期待など抱かんほうが賢明だな」

 楽観的な蓮珠でさえもさすがに黙り込む。それはつまり、十二天将が追っ手として現れた場合、ほぼ確実に戦わざるを得ないということ。

 蓮珠の夢を叶えるための旅路で、また晴藍が傷つくかもしれないと懸念しているのだろう。気が回りすぎるのも考えものだ、と晴藍は苦笑する。

「おまえが気に病むことではない。私は私の意思で、おまえの旅に同行すると決めたのだ」

「……そう、ですよね。晴藍様のお気持ちも考えず、要らぬ気を回してしまいました。申し訳ありません」

 まだ不安は完全に(ぬぐ)えたわけではないだろうが、それでも幾分表情を明るくする蓮珠。

 晴藍の決断は、あくまでも晴藍だけのものだ。その結果、どれほど自分が傷つこうがそれは自分の責任でしかない。突き放した言い方をするならば、蓮珠に心配される道理などないとさえ言ってもいいが……さすがにまだ若く、そして莫迦(ばか)が付くほど真面目で優しい蓮珠にはそう割り切れるものでもないのだろう。

 晴藍もこれ以上この件を掘り下げるのは止めて、話を先に進める。

「ともあれ、避けられる戦いは私も避けたい。だからこそ今のうちにできるだけ皇都から離れておく必要がある」

「つまり……この雨の中でも、無理をして進まなければならない、ということですね」

 察しのいい蓮珠は真っ直ぐに晴藍を見つめた。

「ああ。せめて峠に入る前だったら、迂回(うかい)でも何でもしてもう少し安全な道を行くこともできただろうが……今さら引き返せんし、早めに峠を越えるのがよいと思う。さすがにここさえ越えてしまえば、追っ手に襲われる危険もかなり減るはずだ」

 この峠は西方から皇都への難所として有名だった。難所ゆえ、人の往来は少なく、情報もここを境にして途絶えがちだ。逃避をしている晴藍たちにとっても、余計な情報を残さぬうちにさっさと越えてしまいたいところだったが……やはり難所ゆえに危険も多い。

 天候が万全であっても危険なのに、長雨で地面が泥濘んだ今は……言うまでもない。

 しかし、その危険を冒してでも今のうちに峠を越えてしまおうとするのは、今後の旅路に大きな利を生むからだ。

 そもそもが、かなり無茶な旅なのだから、ある程度無茶をしていかなければ、目的地までは辿り着けないだろう。

 そこで晴藍は何気なく、西側の壁の開口部から外を見る。

 雨で(かす)んだ景色。鈍色の空に覆われたその先を、今は見通すことが叶わない。

 だが、その先に何があるのかは……この国に住む者であれば、誰もが知っていた。

 

 ──神木・扶桑樹(ふそうじゅ)

 

 国のどこにいてもその威容を望むことができる、天を()く巨大樹。

 その天辺(てっぺん)には、〈極楽(ごくらく)教典(きょうてん)〉と呼ばれる、世界に(あまね)く平和をもたらす神の言葉が記された書物が収められているという。

 蓬莱に住む者であれば、子どもでも知っている伝承。どこまで本当かは定かでなかったが……蓮珠と晴藍は、その伝承を信じて扶桑樹を目指している。

 扶桑樹と〈極楽教典〉には、当然蓬莱の天子も興味を持っており、過去に何度か調査隊を送り込んだが……そのすべてが扶桑樹まで辿り着けず、調査は失敗に終わったとされる。扶桑樹までの道のりは、それほどまでに過酷であるらしい。

 だから、そもそも晴藍たちが無事に辿り着ける保証などどこにもなかったが……それでも二人は、扶桑樹を目指すと決めた。

 何故ならそれが、蓮珠の子どもの頃からの夢だったから──。

「──わかりました。そうと決まればのんびりもしていられません。荷物をまとめて早速出立しましょう」

 覚悟を決めたようにそう言って、蓮珠は身支度を整え始める。話が早いのはありがたいが、何も晴藍も無策のまま無謀を行うつもりはない。

「まあ、待て。まだ話の途中だ。いくらなんでも、この雨の中を我武者羅(がむしゃら)に歩き回るのは避けたい。いくら扶桑樹を目指しているとはいえ、莫迦正直に真っ直ぐ西へ進めばいいという単純な話でもないだろう。特に峠道は複雑だからな。できるだけ安全に進みたい気持ちに変わりはない」

 蓮珠はまた不思議そうに首を傾げた。

「しかし……この雨では地面が泥濘んで正しい道もわかりませんよ?」

「ああ。だからここは、ハクの力を借りられないかと思ってな」

「ハクの、ですか?」目を丸くする蓮珠。

 ハクとは、晴藍たちに同行している、〈ツクモ〉と呼ばれる神の一種だ。ツクモは古いものが長い時間を掛けて〈神性〉を獲得し、顕現(けんげん)した存在だ。神なので多くの場合、人を超える大きな力を持つ。

「できればハクからも話を聞きたいのだが……呼び出せるか?」

 通常ツクモは顕現の際、名状しがたい人ならざる形態を取るが、ハクは人と同じ姿を取る。陰陽師としてそれなりに経験を積んだ晴藍でもそのようなツクモは見たことも聞いたこともなかったが、きっとハクは特別なツクモなのだろう、と今はひとまず納得している。ちなみに普段ハクには霊体化──つまり姿を消して同行してもらっている。やや特徴的な見た目をしており、遠目にも目立ってしまうためだ。

 蓮珠は、わかりました、と呟き目を閉じる。

「──ハク。姿を現してもらってもよいですか?」

 呼び掛けに応じるように蓮珠の隣の空間が揺らぎ、初めからそこにいたように人影が姿を現す。

 白い髪と白い肌をした、年の頃は十ばかりの少年。愛らしい顔立ちをしているが、目付きは妙に鋭く、威嚇(いかく)するような視線を晴藍に向けていた。

「どうした、蓮珠。晴藍に襲われそうにでもなったか?」

 声変わりまえのやや高めの声で、見た目に反した不穏当なことを言うハク。どうにもこのツクモは、蓮珠には懐いているが晴藍に対してはやや反抗的でいただけない。文句の一つも言ってやろうと思い立つが、それより先に蓮珠が穏やかに(さと)す。

「心配をしてくれてありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。晴藍様はもっと肉感的な女性が好みなので、私のようなちんちくりんには手を出しません」

「どうかな……ただの節操なしってこともあるから、警戒するに越したことはない」

 酷い言われようだ、と辟易するが、話が進めばなんでもいいと諦めて、晴藍は尋ねる。

「……ハクよ。おまえは確か、地脈を読むことで集落の場所を探れるのだったな?」

「ああ……。まあ、な」

 少しばつが悪そうに視線を外すハク。晴藍たちと出会うまえのハクは、何故か霊体化できなかったため、顕現に必要な力を地脈に流れる〈気〉から補う必要があった。大きな地脈の近くには大抵集落がある。そのせいで大勢の人に迷惑を掛けていたことを今でも悔やんでいるのだろう。気にするな、とはとても言えない悲惨な状況だったが、ハクに責任があるわけでもない。だから、せめて今回はその能力を穏当に使わせてもらおうと思う。

「おまえの力で、この先の一番近い集落を探れないだろうか。私が知る限りでは、峠の向こうということになっているが、御上(おかみ)に知られていない隠里(かくれざと)のようなものが山中にあるかもしれん。もしあるならば、まずはそこを目指すのがよいかと思ってな」

「……なるほど。雨中の峠越えは危険ですが、最小限の移動で集落に辿り着けるならば十分に利があります。そこで態勢を立て直せればなおよしです。御上に知られていない隠里であれば、私たちの情報も行っていないでしょうし、安全です」

 晴藍の意図を素早く察し、さすがとばかりに手を打つ蓮珠。

「妙案、かもしれないな」ハクも賛同する。「道を外れれば追っ手が来てもまけるし、確かに利はあるだろう。だが、道を外れるということはそれだけの危険を伴うことになるが……本当に構わないのか?」

 ハクの言うとおり、道を外れてこの泥濘んだ山を進むことは自殺行為に近い。晴藍一人だけならともかく、お世辞にも身体能力が高いとは言えない蓮珠を連れてとなると、かなり厳しいものがある。

「いざとなれば、蓮珠を背負って行けばいい。短い距離ならば問題ない」

 蓮珠を抱えたままでも、山中を移動するくらいならばどうにでもなる。

 晴藍の覚悟を認めたように、そうか、とハクは呟いた。

「──わかった。ひとまず、地脈を調べてみよう」

 板の間に手を突いて目を(つむ)るハク。陰陽師である晴藍も、多少は地脈の流れを読むことができるが、規模はかなり小さい。ツクモであるハクの力には遠く及ばないだろう。

 ややあってから、ハクは目を開けて立ち上がる。

「……ここから北西に半里ほどのところに、大きな地脈がある。かなりの〈気〉の量だ。皇都ほどとは言わんが、それなりの規模の集落があると思う」

 思い掛けない言葉に眉根を寄せる晴藍。山奥の集落など、数軒が寄り合った小さなものだろうと思っていたが……そんな規模の大きな集落が、地図にも載らずひっそりと存在し続けることなど本当に可能なのだろうか。(にわか)には信じがたい。そもそも隠里ならば小規模であってこそ意味があるはず。規模が大きくなるほど、御上の目を逃れにくくなるのは自明だ。

 訝しく思うが、少なくともハクが嘘を吐く理由はない。特に蓮珠に危険が及ぶかもしれない今の状況ならばなおさらだ。

 ならば……何かがあるのは確かなのだろう。

 一瞬迷うが、晴藍はすぐに決断する。

「とりあえず、行ってみるしかないか。半里ほどならば、今から出ても日暮れまでには辿り着く」

「決まりですね!」気合いを入れるように蓮珠は手を叩く。「私も晴藍様の手を(わずら)わせないよう頑張って歩きます!」

「……まあ、無茶だけはしてくれるな」

 何とはなしに蓮珠の言動に不安を覚えながら、晴藍も重たい腰を上げた。