夢枕獏さんの『陰陽師』を愛し、その愛から始まった“陰陽師トリビュート”ともいえる本作。とはいえ、舞台となる時代も登場人物もまったく異なり、武川さんの手により、新たな陰陽師の物語が生まれました。

 陰陽師でありながらキリシタンに改宗した賀茂在昌は実在の人物。同じく、彼のバディ的存在であり、ともにさまざまな出来事に立ち向かう長岡藤孝(のちの細川幽斎)も歴史にその名を残す武将であり、歌人です。

 発売を記念し、本書の幕開けとなる物語「鯨観音」をまるっと一挙大公開します!


鯨観音

 巨石の高石垣がそそり立つ大手道に、直垂(ひたたれ)(かみしも)姿の武士が並び、その人が石段に足を掛けるごとにつぎつぎ(こうべ)を垂れた。武士のみならず禿頭(とくとう)の僧、頭巾を被った商人、茶人や連歌師なども列に加わり、彼らの吐く白い息が黒金門(くろがねもん)の向こうへ細く流れゆく。

 その人、人の王、織田前右府信長(おださきのうふのぶなが)

 天正七年(一五七九)、正月十一日、早朝。

 琵琶湖のほとりの安土(あづち)山を、信長は登ってゆく。常盤の松の枝葉を透かして早春の薄い晴空(せいくう)があり、完成まぢかの五層七重の天守が(そび)えている。高さは約十丈半(約三十二メートル)、完成すれば日の本でもっとも高い城となる。

 百年続いた戦国乱世に、終わりへのかすかな道が見えはじめている。

 その道はこの安土の城のように折れ曲がり、堅牢な関門がいくつも立ち(ふさ)がる。たとえば石山本願寺(いしやまほんがんじ)。たとえば中国の覇者毛利(もうり)家。屈服させるべき者はいまだすくなくない。

 ――なかでも、とりわけ思いどおりにならぬ「あの城」を、まず()とさねば。

 信長は安土山の頂上から、深い色をした琵琶湖と山々へ、暁光(ぎょうこう)が射しゆくのを眺めた。

 さきにあるのは、いかなる世か。

 

 信長は天守には入らず仮御殿に入った。武家屋敷風ではなく、清涼(せいりょう)殿に似せて作らせた広い(ひさし)には小姓や近習があまた平伏し、人の頭を見おろし歩いた。

 狩野永徳(かのうえいとく)に描かせた獅子図の(ふすま)が引かれた。内から温かい空気が流れだす。

「しばし一人に」

 小姓に言い残し、信長は薄暗い居室に入った。かんかんと炭が燃える火鉢の脇に胡坐(あぐら)し、文机(ふづくえ)を引き寄せる。

 部屋は炭の音だけが聞こえ、静かだった。

 一瞬瞼が落ち、まどろんでいたことに気づく。

 首を振り、唸りながら積まれた文に手を伸ばした。

 正月の贈答目録や、届けさせた品々への返礼が山のように届いていた。それらにざっと目を通しはじめる。

 最後に、ひときわ豪奢な蒔絵(まきえ)文箱(ふばこ)を開いた。

 二日前の九日、尾張(おわり)知多(ちた)郡の浜におおきな鯨が打ちあがった。信長はすぐに京の内裏(だいり)正親町(おおぎまち)天皇と誠仁(さねひと)親王に鯨献上の手配をとった。鯨肉は珍重され、とくに浜にあがったものは寄物(よりもの)といって、縁起物とされる。

 文は、官人陰陽師からの返書であった。日時勘申(にちじかんじん)により、十一、十二日は暦の凶日にあたるため避け、十三日のしかるべき時に進上請ふ、と書かれていた。

 思わず、舌打ちが漏れた。

「たわけ。腐ってしまうではないか」

 肉は伊吹(いぶき)山の雪を詰めて蔵に置いてあるが、そう持つものではない。

 何百年と具注暦(ぐちゅうれき)に日記を記してきた京の貴人たちは、とかく暦の吉凶を気にかけ、ときに方違(かたたが)えといって凶の方角を避けて移動することすらある。

 愚かだと思う。さりとて無下(むげ)にすれば、なにか起きたときそれみたことか、と(そし)られる。

「いずれは、正さねばならぬ」

 (つぶや)いて、文の末尾、勘申を行った陰陽師の名を見た。

 従五位下、賀茂在昌(かものあきまさ)

 京の陰陽道宗家は土御門(つちみかど)安倍(あべ))家と、勘解由小路(かでのこうじ)(賀茂)家の二家あり、あわせて安賀(あが)家とも呼ばれる。在昌は勘解由小路の先代・在富(あきとみ)の子だが、妾腹(しょうふく)の生まれのため家を継ぐ地位ではなかった。そのせいかわからないが、彼は突如切支丹(キリシタン)に改宗し出奔(しゅっぽん)、西国の大大名で切支丹を庇護する大友(おおとも)氏を頼って、長年九州豊後(ぶんご)国に居た。

 切支丹の陰陽師とは、千年つづく陰陽道において前代未聞である。

 とうぜん京の安賀両家は、彼を「いないもの」とした。

 それを二年前に呼び戻し、勘解由小路家を継がせるよう朝廷に口利きしたのは、ほかならぬ信長だ。本人は出自や素行を(はばか)り、旧来の賀茂姓を名乗って、「自分は織田に無理やり呼び戻された」、「勘解由小路は父親の代で絶えた。自分は後片づけをしているだけだ」などと(うそぶ)いている。朝廷も扱いかね、慣例にしたがって従五位下に叙任したものの、勘解由小路家が代々務めた暦博士(れきはかせ)陰陽頭(おんようのかみ)には任じていない。今回の鯨献上のように、散発的に仕事を回しているようだ。

 一度対面したのみだが、切れる男だ。権謀渦巻く都に戻ったからには、彼なりの打算があろう。ほんとうに嫌なら、我関せずと九州で隠遁(いんとん)を決めこめばよかったはずだ。

 文机に肘をつく。火鉢の炭がちいさく()ぜた。

「あの城に、賀茂を当てる」

 餌が必要だ。陰陽師が動かざるをえない(しるし)が。あの城 ――伊丹有岡(いたみありおか)城にそれが欲しい。

 まずは賀茂と面識がある家臣の長岡兵部大輔藤孝(ながおかひょうぶのたいふふじたか)(のち細川幽斎玄旨(ほそかわゆうさいげんし))を(えさ)とすべく、信長は筆を執った。

 小正月もすぎた一月二十日。安土山の仮御殿で、織田家家臣の長岡兵部大輔藤孝は主君とともに座し、来客着到の()れを聞いた。

 襖が引かれ、小柄な男が入ってきて、平伏した。黒い狩衣(かりぎぬ)立烏帽子(たてえぼし)蓬髪(ほうはつ)を油で撫でつけ、うっすらと白粉をひいている。官人陰陽師・賀茂在昌だった。

「前右府さま、おめでとうさんでございます」

 とってつけたような(みやこ)言葉。ああ機嫌が悪いな、と藤孝は察した。付き合いはまだ二年と長くないが、この男の気性の難しさはよく知っている。だから藤孝は下手に出た。

「急な御呼びだて相すまぬ。じつは(それがし)のせいだ」

 在昌はちらと(おもて)をあげ、三白眼で藤孝を(にら)んできた。

「鯨観音のことで相談が。安賀家の惣領(そうりょう)が一、賀茂どのの智見を伺いたく」

 在昌は置眉(おきまゆ)の下の、ほんらいの眉を動かした。

「鯨観音とは」

 藤孝はあらましを話しだす。

 正月に知多郡であがった(ひげ)鯨は八間(約十四・五メートル)と巨大で、肉は今上(きんじょう)に献上されたのち、織田家にも裾わけの(てい)で戻ってきた。肉は、伊丹の有岡城攻めに加わっている藤孝の嫡男、長岡与一郎忠興(よいちろうただおき)へも見舞いとして届けられた。

 織田の領国内にある有岡城はいま、謀反人の城として包囲されている。

 ことは昨年十月。荒木摂津守村重(あらきせっつのかみむらしげ)が、突然謀反した。織田家中でも五指に入る重臣であった村重は、みずからの有岡城に籠城。信長はすぐさま追討の兵を差し向け、藤孝、忠興父子も参陣した。たやすく()ちるかと思われた城は、二月(ふたつき)かけても城の惣構(そうがまえ)に設けた砦すら抜けず、それどころか信長の寵臣、万見仙千代(まんみせんちよ)の討死で年を越した。

 鯨肉は、重苦しい陣に気の晴れるものを、という信長の気遣いであったろう。

 忠興はみずから庖丁をとり、鯨汁にして家臣に分け与えた。暦では春といえ、まだ寒い野陣で、鯨汁は諸将の体をあたため喜ばれたことだろう。

 顔をあげた在昌は、まったく無感動に言った。

「それはよろしおした」

「だがその晩。愚息(ぐそく)が恐ろしげな夢を見申した」

「はあ。夢」

 忠興が鯨肉を切り分けたとき、なかから六寸(約十八センチメートル)ほどの木彫りの観音像が出てきた。奇怪なことに、手と足、さらには微笑を浮かべた口元が、(たがね)かなにかで無数に傷つけられていた。みな観音を哀れみ、鯨脂を落とし、手厚く(まつ)って拝んだそうだ。

 忠興の見た夢は、その木彫りの観音像の夢だった。

「兵部どのは、陣にいやはらしまへんのか」

 在昌の問いに、藤孝はひろい肩を精一杯縮めた。

「某は所用ありて、十日には京へ戻った。伝え聞きを許されよ」

「へえ」

 夢は、見知らぬ百姓たちが、観音を縄で縛りあげる光景からはじまった。彼らは口々に(わめ)き、(ばく)した観音を棒で打ち据える。すると観音の手足からぶすぶすと煙が立ち、真っ赤な炎に包まれた。それでも百姓は悪言(あくげん)を吐き、燃える観音を川へ投げ捨てたというのである。川に落とされてもなお火は消えず、忠興は燃える観音が下流に流れいくさまを呆然と見送った。

 こはいかなる凶夢なりや、と起きた忠興は気味悪く思った。

「愚息は信心深いほうではなく、某も気にしておらぬ。しかし城攻めのさなかということで、念押しに御相談をと」

 藤孝が話を締めくくると、脇息に(もた)れた信長が、眉をひくりと動かした。

「ぬしの勘申にそって吉日に献上したというのに、鯨肉を下げ渡された与一郎は凶夢を見たぞ。わしの読みを超えよった」そこで信長はなぜか笑った。「しかも有岡の陣中ではその日以来、手足に水痘(すいとう)が出る奇病がはびこっておるそうじゃ。ぬしの見立ては(まこと)か」

 身を固くする藤孝の耳に、ほほ、と笑い声が届く。

「上様がさように日時勘申を気にしはるとは意外おした。ちかごろは勘文(かんもん)を書き直せと(おお)せの御偉いはんもおおいのに。叡山(えいざん)を焼かはった御方の言葉とは思えへん」

() ――」

 莫迦(ばか)よせ、と言いかけたのを、藤孝はすんでのところで(こら)える。元亀二年(一五七一)の比叡(ひえい)山焼き討ちは学僧僧兵のみならず、稚児(ちご)遊女(あそびめ)など千とも二千ともつかぬ数の者を殺し、人々を震えあがらせた。焼け落ちた日吉(ひよし)大社の再興を、信長はいまだ許していない。

 笑みを浮かべた在昌は、口を(つぐ)まなかった。

「そろそろできる安土の御城かて、石をあげるとき人足(にんそく)が百やら二百やら下敷きになったそうやないですか。怖ないですか、そないなとこに住まうなんて」

 もうやめてくれ、と藤孝は目を閉じた。しかし信長の脇に置かれた太刀が鳴ることはなく、思いのほか静かな声がした。

「乱世においてもっとも恐るるべきは、なにと思う。陰陽師よ」

「上様であれば、仏罰ではあらしまへんな。人ならざる物でもない。彼らは、ちかごろの京は棲みにくいと言うて離れよる」

「わしは化け物にも恐がられるか」

 信長は喉の奥で笑った。問答を楽しんでいるかに見えた。

「もっとも恐いのは、人の群れよ」

「面白おますな」

「わしとて神仏を敬う心はある。熱田(あつた)社や津島(つしま)社に寄進はいまも欠かさぬ。人の死を悼む心もしかり。父上が病に伏せられたときは、僧を呼んで加持祈禱(かじきとう)させた。甲斐なく亡くなられたときは、僧の験力(げんりき)の無きを恨んだ」

「ほんで抹香(まっこう)を投げつけられては、仏もかないまへんな」

「人はみなかように切なる心がある。しかし天下百万の人となれば、人ではなくなる。(ぎょ)するにはぬしら陰陽師のもっともらしい『技』が効く。そうであろう、滅んだ賀茂の(あるじ)よ」

 すう、と在昌の顔から笑みが消える。

 信長は、声を(ひそ)めた。

「人を信じぬゆえぬしも、わしに応じ京に戻ったのだろ、違うか?」

 衣擦れの音がした。在昌が三つ指を突き、(ぬか)ずく。二人のあいだに形なき応酬があり、在昌が屈したと知れた。常日頃から信長を「しょうけら男」と呼び毛嫌いする在昌が、と藤孝は驚いた。

「えろうすんまへん。勘申はこなたの見立て違いやもしれまへん」

左様(さよ)か」

 信長は畳みかけた。

「与一郎は、わしが目をかけた将。藤孝とともに()く有岡城へゆき、凶夢の源を(はら)(たま)え」

 藤孝は思わず腰を浮かせた。いまは京を離れたくない理由がある。

「や、そこまでは……珍しきことゆえ愚息も夢に見たのにございましょう。賀茂どのに御足労いただかなくとも、(ふだ)の一枚でも御送りいただければ」

 藤孝の言葉を(さえぎ)り、信長が問う。

「我が王道を(たす)くか、陰陽師」

「賀茂の技は、ひとしく人を援けますれば」

 はしばみ色の眼を(ひらめ)かせて在昌が言い、信長は満足そうに(うなず)く。

 どっと全身から力が抜け、平静を装ったまま藤孝は勘弁してくれ、と思った。

 

 安土から別々に京へ戻り支度をととのえた二十三日早朝、京の西北、櫟谷七野(いちいだにななの)社のちかくのおおきなクロガネモチの木のある(いおり)へ迎えにゆくと、黒い(おい)を背負った在昌がすでに門前で待ち構えて、癇癪(かんしゃく)声をあげた。

「遅いぞ織田家の兵部! お主のせいで、しょうけら男に煮え湯を飲まされた」

 つき従う家臣の有吉立行(ありよしたつゆき)が目を丸くし、小声で藤孝に尋ねる。

「しょうけら男とはなんです、殿」

 藤孝は笑って説明してやった。

「腹にいる虫じゃ。中尸(ちゅうし)ともいい、獣の形をしているそうな。その虫が()いた人は吝嗇(りんしょく)や短気になるという」

「虫憑き男とは、まさか……」

「わしに言わせてくれるな」

 青くなった有吉は、必死に言葉を取り繕う。

「いやはや、言葉も風体も変わった御仁(ごじん)ですのう」

 在昌が狩衣や立烏帽子といった陰陽師らしい格好をするのは、宮中に参内(さんだい)するときと、信長に呼ばれたときだけだ。今朝は、印度(インド)綿のゆったりとした長衣(チュニック)に黒い天鵞絨(ビロード)の外套を羽織り、括袴(くくりばかま)を穿いている。(まげ)は結わず、肩ほどの細い髪は後ろに垂らしていた。

 南蛮商人か、宣教師(パードレ)の従僕といった風体である。

 背は四尺八寸(約百四十五センチメートル)、藤孝の肩の高さほどしかなく瘦身なため、年がわかりにくい。四十手前にも見えるが、実際は藤孝より年上と聞いている。

 在昌が有吉に目を止め、じろりと睨みあげた。長岡家第一の家老の名をあげて問う。

「今日は松井(まつい)ではないのか。ずいぶん武張った男だの」

 有吉は急いで下馬し、頭をさげた。

「長岡家中、有吉立行と申す。殿や松井どのより、賀茂さまの御業(みわざ)、御聞きしておりまする」

「ろくな評判ではないのだろ、どうせ」

 文句を言いつつも、行かぬとごねる気はないらしく、藤孝が用立てした馬に在昌は(またが)る。手慣れた手綱さばきで馬を走らせ、藤孝たちもあとを追った。

 寒風を切り、街道を南にくだる。すぐに手指と耳がかじかんだ。伊丹有岡城は京から約十一里。この速さなら午後には有岡城に着くだろう。

 藤孝は在昌の横に馬を並べた。

此度(こたび)は悪かった、許してくれ」

 在昌は、無言で見かえす。

「忠興もわしも、大事にするつもりはなかった。たまたま日向守(ひゅうがのかみ)さま(明智光秀(あけちみつひで))の使いが陣中に来て、知己の男であったため、雑談がてら忠興が夢の話をしたのじゃ。それを伝え聞いた日向守さまが案じられ、大殿の耳に入れた。のう、有吉」

 家臣の有吉もおおきく頷く。

「日向守さまが騒ぎなさったから、我らもとばっちりです」

「そこまでは言うておらぬが……」

 光秀とは幕臣時代からのふるい友人とはいえ、織田家中での立場は光秀が上、藤孝は光秀の組下与力である。それに光秀の娘・玉子(たまこ)(ガラシャ)は忠興の妻。気遣い上手の(しゅうと)は、婿の身を案じてくれたのだろう。恨むつもりはない。

「大殿はなにか秘めた御考えがあるようだが、わしの知るよしもない。陣中の流行り病もじきに収まる。お主が加持祈禱などしてくれれば、みな安堵するじゃろうて」

 在昌は急に馬を止めた。街道は藤孝の居城・勝龍寺(しょうりゅうじ)城のある長岡(ながおか)を過ぎ、(かつら)川、宇治(うじ)川、木津(きづ)川の三河が合流する山崎(やまざき)に差し掛かっていた。街道は有岡城や三木(みき)城といった織田方が囲む城へゆく兵や、兵糧を乗せた荷車、回国僧、遊女、さまざまに賑わっている。朝霧の向こう、船頭が蛇行する川に棹さし、合図を取り合う甲高い声に、在昌の声がまじった。

「お主、有岡城へ行きたくないわけがあるのか」

 ずばり言い当てられ、藤孝は正直に認めた。

「すまぬ。言い訳をすると、戦さどころではなかった」

 片方の唇を持ちあげ、在昌は皮肉な笑みを浮かべた。

「武人が戦さどころではないとは、面白いことを言う」

「暮れから、御師匠の御加減がようない」

三条西(さんじょうにし)さまか。さほどお悪いか」

 大納言・三条西実枝(さねき)は、藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)定家(ていか)にはじまる二条(にじょう)派歌道の嫡流宗匠にして、藤孝の和歌の師である。去年より病がちだったが、正月三日には起きあがることができなくなり、二十日には内大臣に任じられた。臨終がちかい者のこれまでの功労に報いるための叙任である。

「じつは昨晩、京を離れる暇乞(いとまご)いに伺った。御師匠は帝の御使者を迎えたことで気がしっかりしたのか、お話もなされてな。すこしだが、(かゆ)も召しあがったのだ」

 自分を力づけるように言ってみても、師は(よわい)六十九。いつその時がくるか、誰にもわからない。

 和歌のことになると穏やかな微笑を浮かべて、言うことは鬼のように厳しい人だった。幾人もの歌人が彼を慕い、あるいは利用せんと媚び、群れ、去った。

 藤孝は残った。血のにじむような研鑽(けんさん)のすえ、二条派歌道一家相伝の奥義、古今伝授を実枝より受けた。実枝の実子・公国(きんくに)がまだ年若かったためである。三条西家に返し渡すまでの中継ぎではあるが、実枝が死ねば、歌道千年の歴史が武士である藤孝一人の肩にのしかかる。

「お主が京へ戻った訳が知れた。許せ。御傍(おそば)にいたかろうな」

「うむ……」

 頰と鼻頭を赤く染めた在昌は、白い息を吐いた。

「いま、しょうけら男の『流れ』はようない。荒木の謀反は徴のひとつ。はじまりは、弾正(だんじょう)の件からだ」

「あ……」

 その名を聞いて、二年前の苦い思いが蘇る。

「有岡城は()しき流れをつくる大石のひとつ。のぞけば流れは正されよう。信長がおれを呼びだしたのは、それに勘づきおれを試さんがため」

 船の舳先(へさき)があげる飛沫(しぶき)が、朝日に(きら)めいた。

「なおのこと有岡城ははやく片づけ、京へ戻ろう」

「恩に着る」

 在昌は外套を跳ねあげ、手綱を握りなおした。藤孝も馬の腹を蹴る。山崎の関所へ向け、二人はふたたび馬を走らせた。

 

 昨晩のことを藤孝は思いかえす。

 二十四歳の末弟子の中院通勝(なかのいんみちかつ)がみずから御簾(みす)をあげてくれた。通勝は従三位参議(じゅさんみさんぎ)公卿(くぎょう)ながら、兄弟子の藤孝を気安く「御兄さん」と呼んで、典籍を貸し借りする仲だ。

「御師匠、御兄さんが来はりましたで」

 叙任の祝いの絹織物や見舞いの品に囲まれ、師は床から身を起こし、坪庭を見ていた。

「起きてよろしいのですか」

 驚いて脇に膝をつく。骨が浮くほど瘦せてはいたが、血色はよく、視線のさきに白梅の老木が花を満開にして、香気がここまで漂ってきた。

 (しゃが)れ声で師は呟いた。

「わが園に梅の花散るひさかたの(あめ)より雪の流れ来るかも」

『万葉集』、大宰府で大伴旅人(おおとものたびと)らが詠んだ梅三十二首の一、旅人の歌である。咲きほこる梅の花が雪で散ってしまうと憂える内容だ。

 藤孝は師の薄い体を支えた。隣室では剃髪(ていはつ)の仕度が進み、師は此岸(しがん)を離れる舟を待つ旅人だった。

 白濁した師の目が、こちらをじっと見あげている。

「そもじは武人であるからには、人を(あや)める悪行(わるいき)もしよう。この時世(じせ)せんなきこと」

「は」

 背筋を伸ばし、藤孝は一言も聞き逃すまいと集中した。

「それでも守らねばならぬものがある。そは自然(じねん)を愛する風雅の心。骨肉を断ち血を浴びながら、そもじはつねに古歌に心を染め、修羅道に堕ちてなお風雅を歌い継ぎなさい」

 なんと重い道か。体が震えた。

(うけたまわ)りました」

 藤孝は深々と頭を垂れた。京を離れるということは、言えずじまいだった。

「父上の御朋友のおおさは、いまにはじまったことにございませぬが、此度はいささか悪趣味にござる」

 有岡城を包囲する古池田(こいけだ)陣城(じんじろ)で、二人を出迎えたのは、藤孝の息子、忠興だった。

 まだ十七歳だが、幼いころから小姓として信長に仕え、織田家の秘蔵っ子といっていい。尖った鼻に細眉、切れ長の目をして、きついが整った顔立ちだ。みな藤孝の若いころに似ていると言うが、性格は水と火ほども違う。深謀遠慮の父藤孝、穏やかな母麝香(じゃこう)、家中親族の誰にも似ず、短気で直情的な、武士らしい男である。

 腕組みをした忠興は、小柄な在昌を見おろした。

「陰陽師で切支丹とは、二股が過ぎよう。戦さは軍略と時の趨勢(すうせい)によるもの。観音の(たた)りなどと流言を吐く者は成敗するゆえ、(まじな)い師は()く京へ戻られよ」

 彼の妻玉子の侍女は熱心な切支丹だ。宣教師のもとへかよい毎日(いの)りを欠かさない侍女の敬虔さを知る忠興からすれば、「切支丹の陰陽師」は胡散(うさん)臭いこと極まりない。

 在昌は、骨ばった肩を揺らし笑った。

「陰陽道の司る暦道(れきどう)、天文道は、れっきとした学問。村々を回り祈禱料で食う(まじな)い師といっしょくたにされては困るわい。おれは、しょうけら男の命でしかたなしに来たのだ」

 忠興の細眉が動いた。刀の(つか)に右手を置く。

「……名を言うてみよ」

 信長、と在昌が(いみな)を呼び捨てるまえに、藤孝は割って入った。

「待て、待て。これは大殿の命にて、口出し無用。年長の賀茂どのに無礼なるぞ。それより有岡城の様子はいかがした」

「父上を案じさせることはなにもござらん。二日前に敵は五十ほど小勢を繰り出しましたが、万事討ち果たしてございます」

 父にまで険のある眼差しを投げかけ、忠興は「御勝手に」と具足(ぐそく)を鳴らし去っていった。うしろ姿を見送った在昌が、肘で藤孝の脇腹を突く。

「お主の若いころにそっくりだ。百芸に通じた兵部も、子育てだけは不得手か」

 藤孝は(かぶり)を振った。

「見たこともないくせに、よしてくれ」

「さあてな」

 二人はまず、陣中に祀られたという鯨観音を見に行った。咳をする兵が目立った。

「荒木村重はどういう将だ。茶人の数寄(すき)者で、信長に重用されていたのだろ」

 在昌の問いに、藤孝は吐き捨てる。

「浅ましい男。それだけよ」

 陣城の北、猪名(いな)川の河原に、端材(はざい)を組みあわせて作った真新しい(ほこら)はあった。赤い幕を除けると、六寸ばかりの木彫り観音立像が姿を現す。誰かが供えた椀の麦飯は、黄色く干からびていた。水痘が出てからは恐れてちかづく者もいないのだろう。

 藤孝は膝を折って手を合わせ、仏像をよく見た。

 右手をあげ施無畏印(せむいいん)を結んだ姿で、彫りは荒く素朴、悪く言えば稚拙である。腕にかける天衣は省略され、腰に巻く(くん)の布目は直線的だ。彩色もされていない。仏師ではない者が発心(ほっしん)して彫った、そういう類のものに見えた。

「たしかに傷がある。鏨か、(きり)でつけたようだ」

 素朴な彫りだからこそ、傷つけられた痕は痛々しい。手足を(えぐ)るように十、二十はある。口を塞ぐように真横に削がれた二寸ほどの傷には、とくに胸が痛んだ。

「あっ、おい」

 在昌は合掌もせず観音を摑む。逆さにして足裏を見た。とくに仏師の名や国名、年号などは記されていなかった。

「お主は細川和泉(いずみ)上守護家の坊ちゃんだから、(あが)められる美しき観音しか見たことがなかろうが、世には『祟り観音』というものがある」

 藤孝は、眉を寄せた。

「仏がなぜ祟る」

「じっさいに仏が祟るのではない。人がそう『見なす』のだ。心をこめて祈ったのに神仏が応えなかったら、人は恨み、脅しすらする。『曾我(そが)物語』で敵討ちを誓う曾我兄弟は、三嶋(みしま)明神に仇討ちが成就せねば宝殿で腹を切り五臓を投げつけ、社に火をかけると脅すだろ。おやおや、似た話を聞いたばかりだな」

 父の病を治せなかった僧を恨み、父の葬式で抹香を投げた信長のことを、在昌は言った。

「結論を言えば、鯨観音と似た話が、温泉で有名な城崎(きのさき)の十一面観音にある」

 在昌は語りだした。

 大和(やまと)国である仏師が寺に安置する観音を彫っていたところ病にかかり、仏像は未完成のまま放置されてしまった。おなじころその地域で疫病が流行り、人々は仏像の祟りだと騒ぎだした。仏像は川に流され、下流の村で拾われると、今度はその村で病が流行り、二度、三度と流されたという。

「海に投じられた仏像は流れ流れて、城崎ちかくの浦に漂着した。偶然か必然か、拾ったのが(くだん)の仏師で、仏師は観音を彫りあげて、偉い上人に寺を開いてもらった。以後、十一面観音は転じて城崎の守り神となった。重畳(ちょうじょう)重畳」

 仏師がふたたび拾うのはできすぎた話だと思うが、重要なのは「観音に(やく)を見いだし流す」という点だろう。

「たしかに愚息の夢と似ている」

 在昌はにやにやと笑って言った。

「まだあるぞ。お主の得意な『源氏物語』、須磨(すま)の巻」

 ああ、と藤孝はすぐに思う。須磨に隠棲した源氏の君が、厄祓として人形(ひとがた)を須磨の海に流すくだりがある。悪い出来事の源を、なにかで流し去ろうとするのはおなじだ。

「あれは陰陽道の習わしなのか」

「なんとも言いがたいな、寺社でもやる。厄を移し変じさせる仲立ちを撫物(なでもの)と言い、人形代(ひとかたしろ)や鏡がよく用いられるが、場合に応じ仏像になることもあるということだ」

 藤孝は南側へ目をやった。台地の突端にあった池田城を破却し築かれた陣城からは、南の内海までつづく伊丹の平野が一望できる。光源氏も見た瀬戸の内海は、夕陽に(かす)んで黄金色に()いでいた。

 枯草野の真ん中には有岡城がある。夕刻にもかかわらず炊煙はすくない。食料にもっとも困るのが、前年の収穫が尽き、種まきもまだの春さき。まさにいまごろだ。村重や大身(たいしん)の武士は困らずとも、ともに籠城する百姓にとっては苦しい時期だろう。

「仏を、撫物というのか、ともかく身代わりにするなど、(おそ)れおおくはないか」

「だって、観世音菩薩は補陀落(ふだらく)浄土におわすのだろ。『これ』ではない。仏像もある意味、仏性(ぶっしょう)を写したという意味で撫物よ」

 人は図々しい生き物だ、と在昌は仏像を撫でた。

(やく)と厄は表裏一体。手足口を傷つけたのは、水痘の厄を移す意図だろう。民は観音に病を移し、流した。海まで流され、鯨の腹で大洋をともに旅したのか。知多沖には鯨がおおいと聞く」

 名残惜しそうに、在昌は仏像を祠に戻した。

「図々しい人など忘れ、鯨とともに旅をつづけたかったろうに」

 日が(かげ)り、冷えてきた。藤孝は袖のなかで腕を(さす)った。

「鯨観音の来歴はおおよそ理解した。では、いかに祓う。また流すのか?」

 在昌は首を振った。目に見えぬものと対峙する陰陽師でありながら、この男は現実的な考えを好む。

「愚息どのも言うたろう。祟りなどない。すべて人がそう『見なす』だけ。水痘は偶然だ。夏場がおおいが、冬場に流行ることもある」

「実際そうだとして、大殿も陣の兵たちも納得せんぞ」

 だろうな、と在昌は億劫そうに立ちあがった。

百怪祭(ひゃっかいさい)でもするか。新鮮な魚と釜で炊いた姫飯(ひめいい)を用意してくれ。白鳥があればいいが、なければ白鶏で構わぬ。おれもふるい祭祀書の写しで読んだのみだが、百怪祭は怪異全般に対して行う『転じ』の儀。あの観音像の本然(ほんねん)を転じる」

「魚と鶏はすぐに揃うが、平気なのか、そんなあやふやで。不首尾に終わったらなんとする」

「兵部は心配性だな」すでに考えを巡らせているのだろう、在昌は勝手に歩きだす。「まあ、なにかしら『出る』さ」

 いつもこうだ、と藤孝は瘦せた背中を見送る。在昌は、肝心なところは話してはくれない。しょせん気に入らぬ織田の家臣と信用されていないのか。

 ふたたび腕を擦り、ともかく藤孝は支度を命じた。

 日没後、百怪祭は行われた。東に向けて祭壇をしつらえ、供物の魚、白鶏を三方に載せて祭壇に据える。うしろには藤孝や主だった将たちが座した。黒のくたくたの狩衣に着替えた在昌は祝詞(のりと)を唱え、祭壇を回って塩と酒で場を清めた。のたうつような文字とも記号ともつかぬものが書かれた緋色の()を、四方に置き、唱える。

謹請(きんぜい)東方(そう) 謹請南方葙

謹請西方葙 謹請北方葙」

 祭壇に戻る。黒ずんだ銅鏡と、観音像が置かれた前に、五枚目の札を三度押し戴き置いた。

「謹請中央葙」

 銅鏡がぼお、と光った。目を凝らすと、鏡のなかで光が揺らめいている。

 くぐもった音が聞こえてきた。

 しゅー、こーー。

 湯が沸くときのような、ぽこぽこという音もする。

 心が鎮まるような、心地よささえ藤孝は感じた。有吉たち将も不思議そうに鏡のなかを見つめた。

 音はしばらくつづき、やがて消えた。さいごに在昌は祭壇からさげた神酒(みき)を藤孝たちに振りかけ、儀式は四半刻(しはんとき)(約三十分)で終わった。

「撫物たる鏡を通じ、観音の厄は益に転じました。祟りは鎮まりましょう」

 不思議な音という(しるし)があったからか、有吉ら諸将は神妙に頷いた。

 在昌はさっさと狩衣を脱ぐと笈を背負い、水痘の重い兵が寝かされている仮小屋へ向かう。藤孝もあとを追った。

 小屋では高熱の二十人ばかりが寝かされているが、陣中でできる手当などたかが知れている。刀や矢傷を診る金瘡(きんそう)役が、粥をやるくらいだ。

 在昌は笈を開けた。下半分が薬棚で、木製の薬研(やげん)などの道具も入っている。在昌の庵には畑があって、宣教師からわけてもらった薬草などを育てているのを、藤孝は知っている。

「うつるぞ」

 藤孝が入り口から声を掛けると、在昌は「寒い」と口を尖らせた。

「構わぬ、幼いときにかかったゆえ。この病は一度かかると、二度目以後はさして重くならぬ。お主は戻れ。歌道千年が絶えては、おれが定家卿に祟り殺される」

 兵の首や脾臓(ひぞう)に手を当て、(てのひら)や足の裏にできた赤い水痘を箸で診て、在昌は微笑した。

「もっと酷い、水ぶくれができる水痘もあるが、違うようだ。これならば葛根(かっこん)甘草(かんぞう)桂皮(けいひ)を煎じて二、三日休めば、ほとんど快癒する。すぐ熱が引く薬をやるぞ」

 在昌は薬研で草や根を()り、煎じた薬を兵に飲ませる。水痘がひどいところには塗り薬を塗ってやった。洋装の在昌を宣教師と思っているのか、みな手を合わせ、在昌に礼を言う。

宣教師(パードレ)さまかたじけのうございまする」

 通りかかった忠興すら、在昌は遠慮なく使った。

「急に冷えてきた。明日は霜が降りるぞ。おい息子どの。(わら)を持ってきてくれ。将は『卒を視ること嬰子の如し』だろう」

 孫子の一節を引かれては厭とも言い難く、忠興は渋々藁を持ってこさせた。

「けったいな陰陽師じゃ」

 捨て台詞(ぜりふ)に、在昌が笑う。

「明日には()ぬるわ」

 

 紺碧の水に揺蕩(たゆた)う夢から、みずからのくしゃみで藤孝は目を覚ました。四十を超えて早春の野陣はこたえる、と小屋の外に出ると、在昌の言ったとおり寒の戻りで霜が降り、野は一面真っ白に変じていた。一首詠もうと頭を捻っていると、家臣が来た。

「若が、殿を御呼びしろと」

 忠興の陣所へゆくと、すでに小具足(こぐそく)姿の忠興が文を渡してきた。今朝早く有岡城から単騎武者が出て、矢文(やぶみ)を射こんできたという。折りたたまれた鳥の子紙を開くと、達筆な筆跡が目に入った。

 五・七・五・七・七の字並び。

 狂歌だ。

 見た瞬間、かっと頭に血がのぼるのがわかった。

 上句は「長岡兵部は武将としては惟任(これとう)(明智)の下につき、歌人としては三条西の下につき、どれも一等になれぬ」とあてこすっていた。それは、武士からまた公家歌人から幾度となく叩かれた陰口だから、今更どうということはない。

 問題は下句、「都に戻り梅の歌でも詠んでおれ」という内容だ。

 思わず呟きが漏れた。

「……許さぬ」

 荒木村重は、藤孝がいちばん嫌いな(たぐ)いの男である。

 安土に重臣が呼びだされるといつも、「兵部どの、いつも御友人とばかり群れずに、古今伝授者の一席に某も御加えくだされ」と、おおきな体軀をのしかかるように屈め、甘い声で擦り寄ってきた。おぞけ立つのを隠し「いずれ」と微笑して応じ、一度として招いたことはない。村重はかつて主君であった池田氏を下克上しのしあがった地侍(じざむらい)だが、茶人千利休(せんのりきゅう)の弟子で、茶事や茶器の目利きは弟子随一を自負していた。独特の審美眼を持ち、あの松永(まつなが)弾正を(しの)ぐとも言われた。美女を囲うがごとく名物を買い(あさ)る村重を、藤孝は心底卑しいと思う。

 つねならばこんな狂歌、小賢(こざか)しいと鼻で笑える。

 だが、三条西実枝が重篤のいま、梅が散るのを惜しんだ師すら汚された。学ぶべき師として恋い慕い、いまも背を追いつづける師の末期の心をすら、村重は(わら)った。

 目の奥が焼けるように熱い。文を握り潰してもなお、鎮まらない。

 目の前に村重がいたら、一刀のもとに叩き斬っていたろう。

 忠興が神妙に伺う。

「しょせん戯歌(ざれうた)。捨て置きますか」

 自分でもぞっとするほど低い声が出た。

「歌一首で城も()ちうると、教えてやる。水痘で死んだ者の(むくろ)はあるか」

「は……掘りかえせば二、三はすぐに」

 意図を解した忠興はそこまで言って、押し黙る。藤孝は声を荒らげた。

「すぐにせよ」

「はっ」

 死体を掘りかえさせると、寒さのなか死臭を嗅ぎつけた烏が、上空に集まりはじめる。夜どおし看病していたらしい在昌が仮小屋から出てきて、顔を(しか)めた。

「おい。なんの騒ぎだ」

 狂歌の経緯をふくめ、忠興が説明した。

「城攻めにおいては、病で死んだ骸を敵方の城内や井戸に投げこむ。よくあることにて」

「兵部、お主らしくないぞ。水痘病を有岡城に流行らせたところで村重はさして苦しまぬ。苦しむのは百姓、それも弱い老人や赤子だ」

 薄い眉を吊りあげ睨む在昌に、藤孝は淡々と言葉をかえす。

「お主こそ弱腰ではないか。有岡城が陥ちれば『悪しき流れ』とやらを変えられると言うたは、誰ぞ。加持祈禱で城が陥ちるのか?」

 ぐっと言葉に詰まり、在昌はやがて(うめ)くように言った。

「わかった。城を陥とし、流れを変える(すべ)はある。鯨観音を使う。うまくやるから、おれに任せてほしい」

 最初からそうすべきだった、と藤孝は思い、無表情のまま言った。

「かたじけない、陰陽師どの」

 在昌は武具の繕い方から小櫃(こびつ)を借り、鯨観音の傷はそのままになかへ納めた。外側には五色の紙垂(しで)をかけ、「歌の返礼」として有岡城へ担いでゆく。使者には在昌が自ら立った。担ぎ手はみな手足に水痘を発した者である。手甲(てっこう)弓懸(ゆがけ)をつけ、足袋(たび)をつければ水痘はそう目立たない。

 列の先頭に立ち、狩衣姿に戻った在昌は言った。

「長岡藤孝の在陣を敵が知っているということは、間諜(かんちょう)が頻繁に陣に紛れている。ならば鯨観音の祟りで水痘病が流行っていることも、村重は知っているはず。その祟り観音を送りつければ、どう出る」

 激怒して壊すか。そうすれば仏を貴ばぬ不信心と人は見る。

 放っておけば、祟りが起きたとき「祟り観音のせいだ」と人は村重を(そし)る。

「どちらをとっても手詰まり。これが陰陽道の使う(しゅ)よ」

 在昌は目を伏せ、独り笑う。

 霜を踏み、黒い狩衣を先頭に行列は有岡城へと向かった。

 

 気温はさがりつづけ、墨色の雪雲が北からつぎつぎ流れこんでくる。(みぞれ)が降りはじめた日暮れ前、在昌が有岡城から戻ってきた。兵もみな無事であった。

 焚火に手をかざし、在昌は白湯(さゆ)を飲んで身をひと振るいした。

「荒木村重は、なかなかの人物だった」

 はじめ、村重は観音をしげしげと見たという。茶器の目利きに()けた通人は、観音像の由来も含めて興味を引かれたらしい。籠城の日々で押さえつけていた物欲が、目覚めたのかもしれない。

「名高き賀茂の御当主自ら御成(おなり)とは、恐悦至極。かような重宝まで」

「いや」在昌は扇で頭を搔いた。「こなたも観音像もそんな偉いもんやおへん」

 その言葉が合図だった。控えの間に置かれた担ぎ手のしわぶきが響きわたる。つづけて二度。鼻をかむ音もした。足袋を脱ぎ胡坐をかけば、足の裏に浮いた水痘も見てとれよう。

 予想どおり、近習が主君に耳うちした。緩んでいた村重の顔にさっと朱が差す。(さと)い彼はすぐに企みに感づいた。

 観音像の贈り物は建前で、病の者を城内に入れるのが狙いであると。

「おのれ。兵部の差し金か」

 周囲の臣が刀の鯉口(こいくち)を切った。村重の一言で、在昌の首と胴は一瞬で切り離されよう。

 殺気が(ほとばし)る対面の間で、在昌は武士を()めつけ大喝した。

「御仏の御前での殺生、大罪ぞ。汚穢(おえ)を生じようぞ」

 在昌は真正面から村重を見据える。まだ仕掛けの上面(うわつら)だ。

 唇を震わせつつ、村重は手で家臣を制した。二度、三度肩で息をつき顔をあげたときには、重苦しい武将の面構えに戻っていた。

「御仏と賀茂どのには腹立ちもあろうが、()く御帰りいただく」

 それこそが狙いだ。在昌は(くら)い気持ちで頭をわずかにさげる。

「仕方ありまへん。摂津守はんもはばかりさんでした」

 本丸御殿を出、木橋を渡って帰るとき、異変が起きた。

 有岡城は惣構ゆえ、本丸に至るまで百姓の住む曲輪(くるわ)も通る。京の公卿が観音像を運んできたという噂は瞬く間に城下にひろまって、百姓たちが必死の形相(ぎょうそう)(すが)ってきた。

「ありがたい観音さまを、置いていってくだされ」

「公卿さま、後生です」

 地下(じげ)官人の在昌を公卿と呼び、瘦せた民は涙ながらに手を合わせる。赤子を抱き、水痘病の担ぎ手を押しのけ、櫃に赤子をちかづける母親、担ぎ手の足に取りついてなんとか足止めしようとする老人。道は人が(あふ)れ、荒木方の侍がどけ、と威嚇しても身動きが取れない。

 どうするべきか侍は村重に(はか)ったようで、すぐ使番(つかいばん)が戻ってきた。

「焼けとの仰せです」

 在昌は芝居がかった口調で抗った。

「そんな、御仏になんということを」

 櫃を奪い、観音像を兵から渡された侍大将が、異形の仏にぎょっと目を()き、像を高々と掲げ見せる。

「見よ、祟り仏じゃ。織田はかようなもので我らに呪をかけるつもりであったぞ」

 観音像に油がかけられ、火がつけられた。燃えあがる観音を見て、民が泣き叫ぶ。

 炎に照らされ在昌は思う。村重には対面叶わずともよかった。城主が観音を焼く、この光景を民に見せることこそ、仕掛けの本筋だった。

「荒木村重、破滅の路を選んだか」

 在昌はちいさく呟き、取り囲む荒木方の侍を𠮟責した。

「こなたは廷臣。生害(しょうがい)せば帝の勅兵が動く。道を開けよ」

 顚末を話し終えた在昌は、白湯を干し立ちあがった。

「民は見た。観音を焼く下知(げち)をした荒木村重を。人は、祟り仏と言われようとこの目で見た救いが灰となるのに耐えられぬ」

 藤孝は黙ったままでいた。

「………」

「仏が城に入った時点で詰みだったのだ。逃れる方策は箱を開けもせず突きかえすこと。村重は聡い男ゆえこちらの企みに気づき、焼けと命じた。呪は成った。病が流行れば、あとはなにもかも仏罰と人は言うさ」

 陣幕を跳ねあげると、霙は雪に変わっていた。

「帰る。藤孝、お主も急ぐだろう」

 二人は慌ただしく陣を出た。蓑笠を被り、しんしんと降る雪のなか馬を京へ向けて走らせる。一度だけ、藤孝は来た道を振りかえった。夕闇に沈む城は、静かに雪に覆われてゆく。

 藤孝は、師の引いた梅花の和歌を思いかえそうとした。たしかあの歌には対となる歌があったはずだ。いかなる歌だったかと考えを巡らすと、さきを行く在昌の声がした。

「百怪祭で水の流れる音を聞いたろう。あの木像はただ、海に帰りたいと願っていた」

 鯨の腹で木像が聞いた、大洋の息遣い。

「それだけだったのだ」

 急に胸の内が凍りついた。

 旅立ちのまえ、師はなんと言った。

 ――守らなければならぬものがある。そは自然を愛する風雅の心。

「在昌、わしは取りかえしのつかぬことを」

「ただの木像を、祟り観音に変性(へんしょう)させたはおれだ。お主はなにも気に病まずにいろ」

「在昌」

 黒い外套に雪が積もり、在昌のかたちがちいさくなってゆく。

 翌日二十五日。京。

 蔀戸(しとみど)が開け放たれ、むせかえるほどきつく香が焚かれた寒々しい部屋で、藤孝は師匠の亡骸(なきがら)と対面した。取る物もとりあえず駆けつけたため、黒衣すらない、脚絆(きゃはん)の旅姿のままである。

 (ろう)のように白い顔は、眼窩が落ちくぼみ、剃髪した髪だけが数分、伸びているのが目立った。わずかに死臭が漂いはじめるなか、二十四歳の息子公国が白装束でか細く言う。

「昨日夕刻、御父(おもう)さんは一度目を開けられ、庭を指さしました。そののち、深更……」

 形式上の弔問の挨拶など、すべて吹き飛んだ。

辞世(じせい)などは」

 公国は首を振る。

 歌の王が、辞世も遺せず旅立った。藤孝は間に合わなかった。

 こう言うのが精いっぱいだった。

「伝授はちかく、かならず御返し申す。全力で御支えする所存にて」

 手も合わせられず、涙も出なかった。夕刻、鳥辺野(とりべの)にて火葬で送るという。一度支度を整えるため、藤孝は公国に深く頭をさげ、退出した。

 (すす)り泣きの声が、濡れ縁に満ちる。

 危篤となった昨晩より駆けつけ、最期を看取った弟子たちだった。堂上(とうしょう)家、地下家、無官の者、みな黒衣で、親しく交わった連歌師里村紹巴(さとむらじょうは)と弟子たちの姿もあった。

 凍れる濡れ縁を一歩、また一歩、藤孝は歩む。

 弟子が一人ずつ、頭を垂れる。

 里村紹巴すら上目遣いで藤孝をちら、と見あげたのち、深々と頭をさげた。貴殿は看取ったのだな、とぼんやり思った。

 急に若い男の涙声がした。

「御師匠ほおって戦さ三昧かえ、御兄さんは」

 末尾に座した末弟子の中院通勝だった。泣きはらした目と頰が真っ赤に染まって、唇は震えている。隣に座した者がそっと通勝の袖を引く。通勝は袖で顔を覆って啜り泣いた。

 藤孝は呆然と庭を見遣る。昨晩の雪が残る庭に、三日前には満開だった白梅はみな雪に散って、どこに花片があるかもわからない。

 梅花の和歌の、対となる歌を藤孝は思い出した。

 

梅の花散らくはいづくしかすがにこの()の山に雪は降りつつ

 

 師匠は、自分が有岡城へ戻ること、また道を踏み外すだろうことすら見越していたのかもしれない。和歌を、戦さの(かて)となす悪行すらも。

 また一歩、進む。通勝が悔しげに(はな)を啜り、頭を垂れた。

 歌の王となった藤孝は、抹香の煙のなか(かしず)かれて歩んでゆく。

 

 在昌の言うとおり、陣中の水痘はほどなく収まった。

 かわりに有岡城には病が流行り、足弱の老人や子供が田植え前におおく死んだという。死者の数より、城主が仏を焼いたことで民の、そして将の心も村重から離れた。

 在昌は礼として暦献上につかう料紙と、なぜか鯨の髭を所望し、信長から贈られた。

 淀んでいた織田の戦況は、黒石が白石に置き換わるように転じてゆく。

 村重は、妻子や家臣を置き去りに落ち延び、主なき城は十一月、開城した。村重の妻や侍女はのちに京を引き回され、斬首に処された。城に籠った民五百は焼き殺されたという。

 これも仏を焼いた因果と、民は思ったろうか。

 有岡城開城のすこしまえ、陣を引き払い居城の勝龍寺城に忠興が戻ってきた。戦功を(ねぎら)おうと迎えた藤孝は、忠興の険しい顔に気圧(けお)された。

 厳重に人払いをと請い、二度、襖を開けて誰もいないのを確かめると、忠興は切り出した。

「鯨観音の夢をまた見申した」

 正直、藤孝は鯨観音のことなどすっかり忘れていた。動揺の訳がわからず、曖昧に息子を(なだ)めた。

「あれは村重が焼いた。城も民も見捨てた村重は、剃髪して道糞(どうふん)と名乗っていると聞く。すべて仏罰。それでよかろう」

 忠興は激しく首を振り、血走る(まなこ)で父を凝視する。

「夢が変わったのです。百姓から殴られ呪詛を浴び、流されるのは、此度は観音でなかった」

「誰であったのだ」

 長い沈黙ののち、消え入りそうな声で忠興は打ち明ける。

「……上様です」

 前右府、織田信長。

 民に殴られ、火をつけられ、川に流される人の王――そのさまを想像しようとして、藤孝は途中でやめた。

「父上、夢がより悪しきものに変じた。あの似非(えせ)陰陽師はなにをした。いったい、なにが起こっているのです」

 変じたのは自分のせいやもしれぬ、と藤孝は言えぬまま、息子の青ざめた顔を見つめかえした。

 止める術もなくなにかが動きはじめたのを、いまは藤孝と在昌だけが知っている。