〈「僕たちずっと下り坂なんです」。時代はモーレツサラリーマンのアルコール依存症からトー横キッズのオーバードーズへ。依存症の変容が示す日本社会の「失われた30年」〉から続く
「自分で選びなさい」という親の言葉を背負い、医学部受験に破れた23歳の娘。一人暮らしの果てにハマったのが終わりのない「推し活」だった。自発性を強要する現代社会が招く新しいアディクションの実態とは。
信田さよ子さん『溺れながら生きる ケアと依存のあいだで』より、依存症(アディクション)を通じて時代の変容が綴られた箇所を一部抜粋してお届けする。#後篇
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ある母親の嘆き
ひとりの母親がカウンセリングにやってきた。
彼女の主訴(困りごと)は、娘の「行き過ぎた推し活」だった。23歳の一人娘との関係はもともと良好というわけではなかった。夫は理系の研究者だったし、彼女の一族は医師の家系だったので、娘にはあからさまではなかったけれど、医学部に入ってほしいという願望を持っていた。それでも、二言目には「最後はあなたが決めればいいのよ」「あなたがやりたいことをすればいい」と伝えるのを忘れなかった。プレッシャーから娘が不登校にでもなったら困ると思っていたからだ。
さすがに小学校のお受験は避けたが、小4から塾に通わせ、名の通った中高一貫の女子高に入った。そのころから娘はあまり会話をしなくなったが、学校の成績は中程度を維持していたし、高校になってからは理系を選択した。親族からは「手のかからない子」としてずっと褒められて安心していた。
大学受験は自分から医学部を受験すると言い出し、いくつも受けたが受からなかった。浪人して最後にひとつだけ合格したのが、自宅の近県にある薬科大学だった。彼女も夫も内心では深く落胆したが、大学近くのワンルームマンションを借りて一人暮らしをさせることにした。
夏休みに戻ってきた娘は、とにかく授業がたいへんで忙しいと言った。少し痩せたのではないかと思った。
ある日大学から連絡が届き、ほとんど単位がとれていないことがわかった。驚いて娘の部屋を訪れたが、娘はすっかり変わっていた。服装も髪型も、住んでいる部屋も、見たこともないほど荒れていた。
問い詰めると、某アイドルグループのメンバーである推しをずっと追いかけているという。ファンクラブに入り、あらゆるグッズを買う。国内だけでなく海外ツアーも付いていく。仕送りだけでは足りず、旅費や宿泊費のためにバイトを掛け持ちした。食費も切り詰めていた。
夫に報告すると激怒すると思い、彼女の貯金からお金を与え、バイトを辞めさせファンクラブから脱会することを約束させた。カードを持たせなかったので借金がなかったことだけで安堵した。
ところが、留年した娘は授業にもついていけず、孤立した状態から推し活が復活した。親に黙って夜のバイトを始めたことも発覚した。
来談時の母親は、娘を退学させたほうがいいのか、推し活で生活が破綻した例はあるのか、親として何をすべきか、と憔悴した状態だった。3回ほどのカウンセリングを経て、結果的に娘は退学をすることになった。そして、私からの提案もあり、日本から一時的に離れるために海外の語学学校に行かせることにした。インターネットは世界共通だが、それでも推しのいる国を離れるだけでも意味があった。
それまで距離をとっていた夫も本気で協力してくれたので、最初は渋っていた娘の日本移転作戦は実行できた。それから1年経ってやっと娘は落ち着いたという。
ファンダムという推し活の構造
両親が調べたファンクラブの仕組みはじつにうまく作られていた。ファンダムと呼ばれるように、一種の王国を形成している。頂点に位置するのが推しで、垂直構造になっている。ファンは貢献度に応じて細かく階層化され、上位に行くためにはグッズやライブに投資しなければならない。つまり投資するお金に応じて貢献度が計られる。ファンの間の相互監視システムも細かくルールが決められている。上位に位置してもそれは不安定で、気を抜くと転落する。絶えず階層から落ちそうになる危機感と、「あなたが育てている」「あなたが支えている」という満足感が交互に与えられる。少しでも手を抜けば他のファンに出し抜かれてしまうという競争意識も煽られる。これらすべてがアディクション化する要素になる。
多くのアイドルのファンクラブはほとんど同じ構造で運営されている。
これらはファンが自発的に溺れるように仕組まれている。彼女は警察にも、推しの所属する事務所にも訴えたが、誰のせいでもないあなたの娘がすすんでやったことだ、と言われるだけだった。
このような現象は、推し活をよきものとする風潮によって、未成年にも及んでいる。
知人の支援者によれば、親の虐待によって保護された17歳の少女たちが、スマホをとおして推しへの投げ銭にハマり、そのお金をパパ活で得るという姿は珍しくないという。
ホス狂いという現象も、推し活の変形だ。しかしそこにはジェンダー差があるように思う。女性の場合、推しているのは自分なのに、その能動性の発露が屈折した対象支配になっている。いっけん奴隷化のように見えるのだ。
「こんな私が彼を推せるなんて……推しになってもらってごめんなさい」「これだけしか出せないの。こんな私でごめんね」
彼女たちは、ひれ伏して、推しの奴隷のようにふるまう。推しに対する自分の奉仕を計るのがお金なのだ。ホスト(推し)に貢ぐ金額が、彼女たちの推し活の熱意を証明している。こうして彼女たちは風俗でギリギリまで働き、そこで得たお金を推しに注ぎ込む。自分の出したお金によって推しが一瞬やさしくしてくれる瞬間が「短期的報酬」となるのだ。ホストのふるまいはこのような彼女たちの奴隷化を計算したものだ。わざと荒っぽい言葉を使い、時には暴力的にふるまう。そのように扱われることが、推しからの関心を得た証明になる。
推しという主体性を保障する言葉が、いっぽうでこのような奉仕と奴隷的行為につながっていくことは珍しくない。
ひとびとの認知がアディクション化する金融資本主義の時代
カウンセリングセンターの援助モデルは「医療モデル」ではない。アディクションは厳密な医療モデルでは歯が立たないことはおわかりだと思う。ここでもっと広い立場から書かれた一冊の本を参照してみよう。
鈴木直による『アディクションと金融資本主義の精神』(みすず書房)は、思想・哲学的視点からアディクションを論じた人文書である。アディクションをめぐる流れについての説明を要約してみよう。
アルコールやクスリといった物質への依存が中心だった古典的依存症が変貌している。21世紀に入りインターネットを駆使したゲーム障害やギャンブル依存症のような行為のプロセスアディクションの出現を生み、近年ではグローバル経済による金融資本主義が世界を覆い、ひとびとの認知機能そのものがアディクション化していくだろうと。
資本主義そのものがカジノ化し、メジャーな銀行が率先して投資を煽る姿に隔世の感をおぼえるのは私だけだろうか。アディクションという言葉は、このように狭義の精神科医療を超えて、インターネットの世界だけでなく、グローバル経済に支配される世界を読み解く言葉になっている。
この視点は、私自身が肌感覚として日々感じとっているものと共通している。日常生活の感じ方、考え方、とらえ方そのものがアディクション化しつつある。「推し活」はその一例でしかない。
さらに鈴木の主張に添ってその構造をくわしく見ていくと、共通するものがある。
自発的選択の強制というパラドクス
鈴木によるアディクションの定義は次のようなものである。いささかわかりにくく難解な言い回しだが、なかなかすぐれた定義だと思う。三つのキーワードを太字にしてみた。
「アディクションとは、自発的選択がもたらす短期的報酬によって動機づけられたオペラント行動を、しばしばみずからの意志に反して、反復的に継続する状態をさす。」(強調は筆者)
自発的選択が出発になるという点は重要だ。なぜなら、子どもたちはやりたいこと、なりたい仕事を持つように早期から強制される。ことあるごとに「好きなことをみつけなさい」「やりたいことを見つけなさい」と言われ続けるのだ。ふりかえってみると、遠い昔だが、小学生のころに自分が何をしたいか、何になりたいかなど、考えたこともなかった。
しかしそれは表向き強制ではないことがポイントだ。やりたいことを「自発的に」見つけなければならない。それはおとなになっても続く。やりたいことをやるという「自発の強制」という言語矛盾がそこに生まれる。
そこに潜む罠はなんだろう。選んだのは自分だという結果責任だ。ひとことでも文句を言うと「だって自分で選んだんでしょ」「やりたいことをやったのはあなたでしょ」という地獄への道が待っている。
自発的選択を半ば強制されるという逆説、その結果はすべて自分にあるという装置。
これらはすべて檻ではないだろうか。
やりたいことをやるという呪いに掛けられ、檻に閉じ込められたひとたちは、「推し」をつくることで、かろうじて「やりたいことをやっている私」をみつけることができる。多くの人たちが、「これが私の推しです」と言ってケイタイの待ち受け画面を誇らしげに見せるのは、どんなに世情が不安定でも、どんなに物価が上がろうが、私はこうやってやりたいことを見つけて(自発的選択)いるんですよ」ということのデモンストレーションのように思える。私はいつもそんな姿を見るたびに、痛々しく思ってしまう。









