のっけからいきなり質問です。
「人はなぜ薬物依存症になるのでしょうか?」
みなさんはどう答えますか? 一回でも薬物を使用すると、薬物による快感が脳内報酬系をハイジャックし、人を薬物の奴隷に変えてしまうから?
これについては、薬物依存症治療を専門とする精神科医として声を大にして、こう答えたいと思います。
「まさか!」
たとえばアルコールはれっきとした薬物であり、その薬理学的依存性は決して弱くはありません。しかし、誰もが使用経験を持っていて、大半の人はコントロールして嗜んでいるはずです。それでは、そのアルコールの初体験はどんなものだったでしょうか? 脳をハイジャックされるような、めくるめく快感を体験したでしょうか?
後にアルコール依存症を発症する人でさえ、「最初は酒の味はわからなかったが、酒の席の雰囲気が好きで、無理して飲むようになって……」と初体験を回顧する人がほとんどです。あるいは、喫煙習慣のある人は、ぜひご自身の喫煙初体験時の感覚を思い出してみるとよいでしょう。最初から、「おいしい」と感じましたか? むしろ、どちらかといえば口のなかが不快になって、「うへぇ~」と感じたのではないでしょうか?
実は、ヘロインやコカイン、覚醒剤といった違法薬物の場合も同様です。意外にも初体験は、通常、「少し不快な感覚」、あるいは、「どこがいいのかわからない」といった拍子抜けの感覚であることが多いのです。
要するに、一回でも薬物をやったら依存症になるというのは噓といわざるを得ないのです。事実、国連の報告書(二〇一六)によれば、薬物経験者のうち依存症に罹患するのは一割強にすぎません。
では、なぜ一部の人だけが依存症となり、ある薬物をくりかえし摂取するようになるのでしょうか?
*
四十年あまり昔、カナダの心理学者、ブルース・アレキサンダー博士は興味深い実験を行いました。
まず、雌雄(しゆう)同数の三十二匹のネズミをランダムに、居住環境の異なる二つのグループに分けました。一方のネズミは、一匹ずつ狭い檻のなかに閉じ込め(「植民地ネズミ」)、他方のネズミは、十六匹を雌雄一緒に広々とした場所に入れました(「楽園ネズミ」)。植民地ネズミは、他のネズミといっさい交流できない環境ですが、一方の楽園ネズミは、広場の所々に遊具などが置かれ、ネズミ同士で自由に遊んだり、じゃれ合ったりできました。
アレキサンダー博士は、これら二つのグループのネズミに対し、ふつうの水とモルヒネ入りの水を用意して与え、五十七日間観察しました。そして、どちらのグループのネズミの方がよりたくさんのモルヒネ水を消費するのかを調べたわけです。
その結果、植民地ネズミは、檻のなかで頻繁かつ大量のモルヒネ水を摂取しては、日がな一日酩酊していました。それに対して、楽園ネズミは、もっぱらふつうの水を飲んで、他のネズミと遊んだり、じゃれ合ったり、交尾したりしていました。モルヒネ水は最初だけ少し試したものの、その後はいっさい見向きもしなかったのです。
この実験は、「なぜ一部の人だけが依存症になるのか?」という問いに対するヒントをくれます。そのヒントとは、依存症になりやすい人とは孤立している人、しんどい状況にある人なのではないか、というものです。
このことはとても重要です。米国の精神科医エドワード・カンツィアンは、依存症発症のメカニズムとして「自己治療仮説」(一九八五)という理論を提唱しています。彼は、「依存症の本質は快感ではなく苦痛である。そして薬物使用を学習する際の報酬は、快感ではなく、苦痛の緩和である」と述べました。ネズミの実験と見事に符合する見解です。
自己治療仮説は、精神科医としての私自身の臨床経験に照らしてもしっくりときます。これまで私が出会った薬物依存症患者はみな、困難な現実に過剰適応し、苦痛や苦悩をコントロールするために薬物を使っていました。もちろん、最終的には、薬物自体が持つ依存性によって脳がハイジャックされ、自分をコントロールするために用いてきた薬物に、気づくと自分がコントロールされてしまう状態に陥っていましたが。
くりかえします。薬物依存症の人たちは快感を求めて薬物を使っていたのではありません。苦痛を緩和し、不幸に適応するために薬物を使っていたのです。そして、抱えている心理的苦痛が大きければ大きいほど、その人は薬物の効果を強烈に感じるのです。
*
そのような薬物でありますが、なぜ今日、薬物を使うことはいけないこと、犯罪として、法で規制されているのでしょうか?
というのも、薬物は人類と同じくらい古く、長い歴史があります。たとえば、古代ローマ帝国五賢帝の一人マルクス・アウレリウス・アントニヌスがアヘン常用者であったことはよく知られていますし、紀元前四〇〇〇年頃のメソポタミア文明遺跡から発掘された粘土板にも、「ケシ(実はアヘンの原材料)は愉楽の植物」と記されているほどです。
さらにいえば、歴史的にはもともと薬物は「悪者」ではなかったのです。アルコールやニコチン、カフェインといった社会的に許容されている薬物はもちろん、ヘロインやコカイン、覚醒剤のような強力な依存性を持つ薬物でさえも、それが発見・発明された当初、神聖なもの、あるいは医薬品として大切に使われていた時代があったのです。
おそらく薬物が人類に害をもたらす、いわば「社会の敵」となったのは、社会の側の変化にこそ原因があったと思います。つまり、社会が発展し、豊かになり、複雑化し、多くの人々が薬物にアクセスするようになるに伴って、様々な苦痛や恥辱、あるいはプレッシャーに苛まれる人たち、格差や差別に喘ぐ人たちのなかで度を超した薬物の使い方をする人が出始め、その結果、薬物による様々な健康被害や社会的弊害が顕在化してきたわけです。
そこである時期を境に、各国は国際的協調のもと、「人類の健康及び福祉に思いをいたし……」(麻薬に関する単一条約、一九六一)て、薬物を規制し、その使用や所持を厳しい刑罰の対象としたわけです。いまから六十年あまり前の話です。
はたしてその成果はどうであったでしょうか?
実は、二〇一〇年頃から、こうした厳罰政策が失敗であり、かえって当事者と社会を苦しめていることを示すエビデンスが数多く報告されるようになりました。
いくつか列挙してみましょう。
第一に、厳罰政策を開始して以降、皮肉にも世界中のアヘンやコカインの生産量と消費量は激増しました。第二に、薬物犯罪で刑務所に収監される者が激増し、新たに刑務所を建設するために巨額の税金が投入されてきました。第三に、薬物の過量摂取による死亡者、および薬物使用を介したHIV感染者が激増しました。そして最後に、違法化によって反社会勢力が密売をするようになり、巨利を得た彼らは、もはや政府の力では対処できないほどの巨大組織に成長してしまいました。
こうしたエビデンスは、本来、人類の健康と福祉の向上を目的とした厳罰政策が、皮肉にも人類の健康と福祉を損ない、社会の安全を脅かす事態を招いたことを示唆します。
それだけではありません。厳罰政策は、薬物依存症を抱える当事者の回復を妨げてもいます。事実、最近わが国で行われた研究(嶋根卓也ら、二〇一九/Hazama & Katsuta、二〇二〇)は、覚醒剤取締法違反者は刑務所に長く、頻回に入るほど、将来の再犯リスクが高まること、そして、刑務所に入るたびに依存症が重篤化している可能性を明らかにしています。
今日、国際的には薬物犯罪に対する刑事政策は、まさに岐路を迎えているといえます。
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ご承知のように、著名人や芸能人が薬物事件で逮捕されるたびに、激しいバッシング報道でテレビのワイドショー番組は持ちきりとなります。警察署から保釈されればされたで、カメラの前での謝罪を強いられ、その後はメディアの人たちに車やバイクで追いかけ回され、追跡にはヘリコプターまで動員されます。さらに治療のために病院に行けば、そこにも報道陣が待ちかまえていて、治療どころではない状況となります。家族にも害はおよびます。自宅に押し寄せるメディア関係者に生活の安全を脅かされ、長いことホテルを転々とする苦労を余儀なくされるのです。
ひどいのはメディアだけではありません。たとえば、二〇一六年に清原さんが逮捕されたとき、なぜ逮捕直後という絶妙なタイミングの映像をテレビで流すことができたのでしょうか? これは、捜査機関が内々にメディアに逮捕情報をリークし、報道の過熱化、炎上化を狙ったとしか考えられません。
かねてより不思議に思っていたことがあります。逮捕された著名人を護送するワンボックスカーは、なぜか決まって後部座席を仕切るカーテンが開かれています。なぜなのでしょうか? いくら逮捕されたといっても、まだ裁判で判決が出ていない容疑者――いわば「推定無罪の身柄」――の段階です。本来は一定のプライバシーへの配慮が求められるはずです。
それにもかかわらず、なぜカーテンを開けるのでしょうか? 現代版「市中引き回しの刑」を演出するため? だとしたら、法治国家であるわが国で、捜査機関が率先してそのような「私刑」を行ってよいのでしょうか?
そもそも、こうした一連のバッシング報道は、彼らが犯した過ちに見合ったものなのでしょうか? 大物政治家の汚職発覚とか、大量殺人事件といったものならばいざ知らず、同じ犯罪といっても、たかだか、「人類の健康及び福祉に思いをいたし」て規制された薬物の話です。
当然ながら、こうした一連の報道は、著名人本人の精神状態に深刻な影響をおよぼします。世界中が自分を糾弾し、自分を敵視している感覚に陥り、恐怖で外出が困難となります。そして何ヶ月間も部屋にこもり続け、ただひたすら自殺を考える日々が続くのです。
これまで私は何人かの薬物問題を抱える著名人の治療を担当してきましたが、その誰もがそうした精神状態に追い詰められているのを、診察室という至近距離で目の当たりにしてきました。そのたびに、表向き「いじめ防止」「ハラスメント防止」「自殺予防」ときれいごとをいいながら、現実にはそれを肯定する行動をとっているわが国の社会に強い憤りを感じてきました。
一連の報道は、著名人本人にとどまらない影響もあります。
薬物依存症からの回復を願って専門病院やリハビリ施設でのプログラムに励んでいる当事者にも深刻なダメージをおよぼすのです。実際、薬物事件報道がワイドショーを賑わすたびに、私の外来に通院する多くの薬物依存症患者さんたちは深く絶望し、治療意欲が萎えしぼむのです。世間のバッシングや薬物使用者に対する罵声は否が応でも彼らの耳にも入り、「このまま治療を頑張って薬物をやめた状態を維持しても、社会には自分の居場所がない」と感じるからです。
しかも、テレビ報道で挿入される「注射器」や「白い粉」の映像を目にするたびに、薬物使用時の感覚が生々しく蘇り、鎮まっていた薬物渇望が刺激されて、なかには再使用して逮捕されてしまう人もいます。
みなさんにお願いがあります。今後、著名人の薬物報道に接したら、ぜひこうした背景や影響に思いを馳せ、少なくともこの「私刑」には加担しない、という選択をしてほしいのです。
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わが国では長いこと、薬物乱用防止の美名のもと、薬物依存症の当事者を生け贄として屠(ほふ)り、みせしめにする対策をとってきました。
たとえば、一九八〇年代、テレビではさかんに「覚醒剤やめますか? それとも人間やめますか?」というキャッチコピーが流れていました。そして、八〇年代後半から今日まで、「ダメ。ゼッタイ。」という合い言葉で、毎年、乱用防止の啓発がなされ、啓発週間に開催されるポスターコンクールでは、違法薬物の乱用者をゾンビやモンスターのように描いた生徒の陰惨きわまりない作品に都道府県知事賞が与えられてきました。あたかもジョージ・オーウェルのディストピア小説『一九八四』を彷彿させる、国をあげての洗脳教育です。
こうした一連の洗脳の成果が、ひどい薬物事件報道を許容する社会とはいえないでしょうか? さらには、国内各地では、地域の住民が、薬物依存症の当事者が運営するリハビリ施設「ダルク」に対する反対運動を起こし、薬物依存症からの回復までも許容しない社会を作り出しています。さらにいえば、近年、薬物依存症専門病院では、皮肉にも処方薬や市販薬といった医薬品――「逮捕されない薬物」「一回やっても人生が終わらない薬物」――の依存症患者が顕著に増えています。
わが国の薬物乱用防止啓発は、どこで「ボタンを掛け違えた」のでしょうか?
なお、断言しておきますが、最初に違法薬物を勧めてくる人物というのは、決してゾンビやモンスターのようなおそろしい人物などではありません。むしろ最初の薬物使用は、それまで出会ってきた人のなかで最もやさしくて、「おまえ、イケてるじゃん、おもしれーじゃん」と、初めて自分の存在価値を認めてくれた人が、「仲間になろうぜ」とつながりを提示してくることから始まります。
その意味では、私たちが問題視すべきなのは、薬物そのものではなく、その人がこれまで置かれてきた孤立なのです。
孤立については興味深い動物実験があります。先ほど紹介したネズミの実験には続きがあります。
アレキサンダー博士は、檻のなかですっかりモルヒネ依存症になってしまった植民地ネズミを一匹だけ取り出して、楽園ネズミのいる広場へと移し、さらに観察を続けたのです。
すると、まもなくその植民地ネズミは楽園ネズミたちとじゃれ合い、交流するようになりました。それだけではありません。やがて植民地ネズミはいつしかモルヒネ水を飲むのをやめ、楽園ネズミたちの真似をして、ふつうの水を飲むようになったのです。
この実験結果は、薬物依存症からの回復に何が必要なのかを教えてくれます。それは、孤立しない環境、人とのつながりです。こう言い換えてもよいでしょう。英国人ジャーナリスト、ヨハン・ハリがいみじくも看破したように、「アディクション」(Addiction:依存症、酒や薬に溺れた状態)の対義語は、「ソーバー」(Sober:しらふの状態)でも「クリーン」(Clean:薬物を使っていない状態)でもなく、「コネクション」(Connection:人とのつながり)なのだ、と。
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とりとめのない話をしてきました。そろそろ、この解題もおわりにすべき紙幅に達しました。
最後に、一つ伝えておきたい事実があります。
私が担当する薬物依存症の専門外来は、初診申し込みをメールで受けていますが、薬物依存症者から届くメールには二つの特徴があります。一つは、深夜に送信されるメールが多いということ、そしてもう一つは、メール送信日は彼らの誕生日前後が多いということです。この二つの特徴から思い浮かんでくるのは、周囲の批判に抗い、一見、居直って薬物を使い続けながらも、深夜、「もうすぐ××歳になるというのに……」と迷う孤独な人間の姿です。
その迷いを希望に変えるのは、刑罰による苦痛や排除、あるいは、報道による「袋叩き」や辱めではなく、治療や支援、そして回復を応援されるなかで体験する、「人のやさしさ」である――そう私は信じています。
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