『滴り落ちる時計たちの波紋』は、短篇集としては第二作目、デビュー作から数えると第五作目となる小説作品で、収録された九篇は、いずれも一冊の本に纏められることを前提として書かれている。これは、前作『高瀬川』の場合と同様で、これら二つの短篇集は、次に出版される予定のもう一つの短篇集と併せて、「初期三部作」(『日蝕』、『一月(いちげつ)物語』、『葬送』)に続くピリオドを形成するはずである。
〈白昼〉は、新聞社の読書企画のために書かれた作品であるが、私はこれを、最初から音楽のアルバムの「一曲目」に相当するようなものにしようと考えながら執筆した。前作の読者は、或いは<分裂した>〈清水〉(『高瀬川』収録)という印象を抱くかもしれない。その根拠は、散文と詩との分離と並列という形式にあり、また「彷徨」という主題の、二人の登場人物による反復という前半部の内容にあろう。散文部分に見えているのは、訳の分からない理由で、或る役割の中に閉じ込められ、そこから出られなくなってしまった人間というカフカ的な主題で、これが近代批判の単純な寓話として解釈される所以(ゆえん)である。が、それは可能性の一つである。「並列法」は、『葬送』以来、私が様々に試みている技法で、ここでの狙いは「隠喩」の分離である。少し前から、私は「隠喩」を単に装飾的な技法として見るのではなく、「散文的な思考」の底で伴走する「詩の思考」とでも言うべきものの瞬発的な発現ではないかと考えるようになった。両者を一旦分け、並置することによって、その仕組が解明出来るのではないかというのが、本作に於ける私の試みである。後半部は、そうした理由で、厳密に言えば詩ではない。結部に於いて、前半部と後半部とは明らかにトーンを異にしているが、私はそれが何事かを意味していると考え、矛盾を敢えて尊重することにした。こうした発想は、〈追憶〉(『高瀬川』収録)に於ける実験に多くを負うている。
〈初七日〉は、〈『バベルのコンピューター』〉を除けば、本作で登場人物が固有名詞を備えている唯一の作品である。これは言わば、もう一つの『葬送』であり、私の中には、常にこうした、ヴァリアントを制作したがる画家のような欲求がある。が、主題の重心は大きく異なっている。扱われているのは、「父との和解」である。思うに、「父殺し」という例の神話は、神だとか、形而上学といった様々なロゴスと対決しなければならなかった二十世紀の時代病ではなかったか。それはそもそも、ヨーロッパに端を発した伝染性の風土病である。そして今、私が幻視するのは、良くも悪くも、その終焉の光景である。今一つの主題は、「地獄」という観念である。私はそれを「想像力の不可能」という問題と併せて考察したが、作家である限り、私はここで示した結論に対し、反論し続けなければなるまい。戦中のエピソードについては、複数の証言を参考にしたが、そのうちの一つは、ビルマに出征し、帰還した私の母方の祖父が遺した記録である。が、登場人物は、「康作」を含めて、私の親族とは何の関係もない。
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〈珍事〉以降の五作は、雑誌掲載時には一度に纏めて発表されたが、それは<たまたま>である。〈珍事〉は、末尾の一行のためだけに書かれる類のコントだが、恐らくは〈白昼〉の前半部と連絡を有している。また執筆後に、ボルヘスの〈他者〉との構成上の類似に気がついたが、恐らくはそうした発見自体が、幾分かはボルヘス的である。それは、相応の真実を含んではいるが、結局のところ、検証不可能な、興味深い連想に過ぎない。
〈閉じ込められた少年〉は、前から読んでも後ろから読んでも同じ小説で、必然的にハイライトは作品の中心部となる。私はそこに少年の殺人を配して、彼が永遠にその瞬間に固定されてしまう現実を、脱出口のない言葉の構造の中に定着させようとした。無論これは、語順が決定する「意味」の相対性についての考察であり、時間の不可逆性と言葉の不可逆性との関連の検証である。が、作品が成功しているか否かは、言うまでもなく、リリシズムが能(よ)くこの珍妙な実験に堪えているかどうかにかかっている。
〈瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟〉は、直喩がしばしば早口で語る「物語」を、独立した小説として書き上げてみようという単純な発想から誕生した作品である。プランは二つあった。或る作品に登場するすべての直喩の物語を書くこと。今一つは、各々の中心的な直喩で相互に結び合った二つの小説を並列すること。ここで採用されたのは後者である。
〈瀕死の午後〉は、イタリアのネオ・レアリズモ映画を念頭に置いて書いた作品だが、出来上がったものからはそれを判読することは難しいかもしれない。人は、この作品の「貧困」という主題の扱い方に、或る種の「のんき」を感じるかもしれないが、それは恐らく、本質的な批評である。「社会悪」を扱う際のリアリズムという手法は、常にその動機に於いて、そうした現実に抗議する真摯なイデアリズムを隠し持っているものだが、その場合、作者が必ずしもその「社会悪」の渦中にある訳ではないというのは、この手法の抱える大きな問題である。私は無論、この難点に無自覚であるわけにはいかなかった。困難がある。そこに<否応もなく巻き込まれている人間>と<自らの意志で関与する人間>とは、果たして真に問題を共有することが出来るであろうか。この問いは、〈初七日〉に於ける「想像力の不可能」という主題と通底している。他方、〈波打つ磯の幼い兄弟〉は、リアリズムの体裁を取りながらも、寧(むし)ろ「兄弟」と「災難」という神話的な題材を取り上げた作品である。私の作家的な努力は、いかにして<過失>を合理性の下に維持し続けるかという古典悲劇のドラマトゥルギーを墨守することに向けられていた。最後の悲劇が、弟によってではなく、兄によって齎(もたら)されるという点が、その逆説的な成果である。
〈les petites Passions〉は、勿論、キリストの「受難」を意味するla grande Passionに基づいてつけられたタイトルである。「受難」が即ち「情熱」へと転化するというロマン主義の本質的主題は、既に『一月物語』の中で試みられているが、ここでは少年の切実な夢想としての「小受難図」を描き出すことに力を注いだ。私が「少年」という主題を扱うようになったのは、漸(ようや)く〈氷塊〉(『高瀬川』収録)を書いてからのことだが、事実、私にとってこれは、郷愁と嫌悪とを綯(な)い交ぜにした難しい領域である。スタイルについては、アストゥリアスの『グァテマラ伝説集』が参考になった。
〈くしゃみ〉の主題は、死の「突然性」についてであるが、付加的要素が多少の広がりを与えている。所謂(いわゆる)ブラック・ユーモアとして読まれることは一向に構わないし、作者の意図も幾分それに沿うところがある。
〈最後の変身〉は、収録作中、最長のものであるが、分量は必ずしも重要性に比例しない。寧ろその膨張の仕方に注意を払われたい。
この作品は、インターネットのウェブサイト上に公表された手記という体裁を取っており、着想の段階では横書きだった。雑誌掲載時には通例に従い、これを縦書きに改めたが、私は満足しなかった。それは、作品に不要な「文学性」を付加し、質的な変化を齎すからである。そのため、今回これをすべて横組みに戻した。この改変については、編集者から異論があり(取り分け、ノンブルの進行方向が通例とは逆になるため)、長らく議論を重ねたが、最終的にはこのような形となった。出版社の「良識」を疑われぬため、その不自然が十分に指摘されていた事実をここに付言しておく。
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現在の私の関心の一つは、書物という形態が有するスペイスの中で、言葉をいかにして量的に分配し、構築するかということである。この時、小説中の或る語句、或る文章と同様に、小説そのものを、まさしく〈バベルの図書館〉のように量的に集合した言葉の総体の――しかしそれはスタティックに構造化されたものではなく、常に全的に流動している――と或る「ロケイション」に過ぎないと見做(みな)し得るのではあるまいかというのが目下の私の考えである。私の野心は、現在、離れ小島のように浮遊している「小説」という言葉の集積と、インターネットによって日々、爆発的に増殖しつつある新興の言葉の群とを、質的に判別するのではなく、そのロケイションの関係によって構成し直したいというものであり、この作品に期待したのは、言わばその橋渡しの役目である。その根底には、幾度となく試みられては失敗してきた、同時代人との問題の共有という私の切実な欲求がある。ノンブルは、縦書きの場合と同様の進行方向にした。書物に於ける進行の不可逆性は、当然に近代的時間の隠喩である。私は、現代という同じ一つの時間の流れの中の、多様な個々の時間の波紋をこの作品集の中に収めたかった。それ故に、単に慣例的な理由によって、この作品だけを逆行させることは出来なかった。主題は所謂「ひきこもり」であり、それをカフカの『変身』と併せて考察した。ここに示された「見かけ」と「本質」という問題設定は、古代ギリシア以来の古典的なものであり、主人公の煩悶は殆ど実存主義的である。私は、我々の世代に蔓延するこの種の反動的な雰囲気を見逃すことなく押さえておきたかった。それが一過性のものであるのか、永続的なものであるのかは分からない。しかし、私の見るところ、サイバースペイスの拡充は、明らかに内面と外面との分離を押し進め、強化しつつあるようである。
〈『バベルのコンピューター』〉は、ボルヘスの〈バベルの図書館〉の批評的更新である。恐らく今日、ここに登場するすべての固有名詞の実在を信じる者はいまい。嘗(かつ)ては、ボルヘス的博識は、ただ個人の頭脳の中にだけ秘匿されていた。しかし、我々の時代の読者は、その幾つかをインターネットで検索してみて、一つも関連サイトが見つからなければ、それを虚構と見做すであろう。現代では、フィクションは、そうした状況下に置かれている。テクノロジーの進歩を徒(いたずら)に表層的なものとして軽視するのは誤りである。他方、私はここで幾つかの美術作品を創造した。もし小説家が、一つの「現実」を創造する代わりに、言葉による「仮構」で事足れりとするのであるならば、芸術作品とて同様ではあるまいか。これが私の投げかける問いである。
表題の『滴り落ちる時計たちの波紋』は、〈白昼〉の中の一節から採られた。私は、ただ何となく長いタイトルをつけてみたかったのだが、関係者からは覚えられないと不評である。
例によって身も蓋もない自作解題を行ったが、私は最近、これを悲観しないようになった。それは、ボルヘスのあの出し惜しみのない「まえがき」や「あとがき」が、別段作品の魅力を殺(そ)ぐことなく、しばしば増しさえしていることに気がついたからである。蓋(けだ)し、作者が創作の意図を秘しておかねば魅力が保たれないような小説は、そもそもが、その程度のつまらない作品なのであろう。