〈瀕死の午後〉は、イタリアのネオ・レアリズモ映画を念頭に置いて書いた作品だが、出来上がったものからはそれを判読することは難しいかもしれない。人は、この作品の「貧困」という主題の扱い方に、或る種の「のんき」を感じるかもしれないが、それは恐らく、本質的な批評である。「社会悪」を扱う際のリアリズムという手法は、常にその動機に於いて、そうした現実に抗議する真摯なイデアリズムを隠し持っているものだが、その場合、作者が必ずしもその「社会悪」の渦中にある訳ではないというのは、この手法の抱える大きな問題である。私は無論、この難点に無自覚であるわけにはいかなかった。困難がある。そこに<否応もなく巻き込まれている人間>と<自らの意志で関与する人間>とは、果たして真に問題を共有することが出来るであろうか。この問いは、〈初七日〉に於ける「想像力の不可能」という主題と通底している。他方、〈波打つ磯の幼い兄弟〉は、リアリズムの体裁を取りながらも、寧(むし)ろ「兄弟」と「災難」という神話的な題材を取り上げた作品である。私の作家的な努力は、いかにして<過失>を合理性の下に維持し続けるかという古典悲劇のドラマトゥルギーを墨守することに向けられていた。最後の悲劇が、弟によってではなく、兄によって齎(もたら)されるという点が、その逆説的な成果である。
〈les petites Passions〉は、勿論、キリストの「受難」を意味するla grande Passionに基づいてつけられたタイトルである。「受難」が即ち「情熱」へと転化するというロマン主義の本質的主題は、既に『一月物語』の中で試みられているが、ここでは少年の切実な夢想としての「小受難図」を描き出すことに力を注いだ。私が「少年」という主題を扱うようになったのは、漸(ようや)く〈氷塊〉(『高瀬川』収録)を書いてからのことだが、事実、私にとってこれは、郷愁と嫌悪とを綯(な)い交ぜにした難しい領域である。スタイルについては、アストゥリアスの『グァテマラ伝説集』が参考になった。
〈くしゃみ〉の主題は、死の「突然性」についてであるが、付加的要素が多少の広がりを与えている。所謂(いわゆる)ブラック・ユーモアとして読まれることは一向に構わないし、作者の意図も幾分それに沿うところがある。
〈最後の変身〉は、収録作中、最長のものであるが、分量は必ずしも重要性に比例しない。寧ろその膨張の仕方に注意を払われたい。
この作品は、インターネットのウェブサイト上に公表された手記という体裁を取っており、着想の段階では横書きだった。雑誌掲載時には通例に従い、これを縦書きに改めたが、私は満足しなかった。それは、作品に不要な「文学性」を付加し、質的な変化を齎すからである。そのため、今回これをすべて横組みに戻した。この改変については、編集者から異論があり(取り分け、ノンブルの進行方向が通例とは逆になるため)、長らく議論を重ねたが、最終的にはこのような形となった。出版社の「良識」を疑われぬため、その不自然が十分に指摘されていた事実をここに付言しておく。
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現在の私の関心の一つは、書物という形態が有するスペイスの中で、言葉をいかにして量的に分配し、構築するかということである。この時、小説中の或る語句、或る文章と同様に、小説そのものを、まさしく〈バベルの図書館〉のように量的に集合した言葉の総体の――しかしそれはスタティックに構造化されたものではなく、常に全的に流動している――と或る「ロケイション」に過ぎないと見做(みな)し得るのではあるまいかというのが目下の私の考えである。私の野心は、現在、離れ小島のように浮遊している「小説」という言葉の集積と、インターネットによって日々、爆発的に増殖しつつある新興の言葉の群とを、質的に判別するのではなく、そのロケイションの関係によって構成し直したいというものであり、この作品に期待したのは、言わばその橋渡しの役目である。その根底には、幾度となく試みられては失敗してきた、同時代人との問題の共有という私の切実な欲求がある。ノンブルは、縦書きの場合と同様の進行方向にした。書物に於ける進行の不可逆性は、当然に近代的時間の隠喩である。私は、現代という同じ一つの時間の流れの中の、多様な個々の時間の波紋をこの作品集の中に収めたかった。それ故に、単に慣例的な理由によって、この作品だけを逆行させることは出来なかった。主題は所謂「ひきこもり」であり、それをカフカの『変身』と併せて考察した。ここに示された「見かけ」と「本質」という問題設定は、古代ギリシア以来の古典的なものであり、主人公の煩悶は殆ど実存主義的である。私は、我々の世代に蔓延するこの種の反動的な雰囲気を見逃すことなく押さえておきたかった。それが一過性のものであるのか、永続的なものであるのかは分からない。しかし、私の見るところ、サイバースペイスの拡充は、明らかに内面と外面との分離を押し進め、強化しつつあるようである。
〈『バベルのコンピューター』〉は、ボルヘスの〈バベルの図書館〉の批評的更新である。恐らく今日、ここに登場するすべての固有名詞の実在を信じる者はいまい。嘗(かつ)ては、ボルヘス的博識は、ただ個人の頭脳の中にだけ秘匿されていた。しかし、我々の時代の読者は、その幾つかをインターネットで検索してみて、一つも関連サイトが見つからなければ、それを虚構と見做すであろう。現代では、フィクションは、そうした状況下に置かれている。テクノロジーの進歩を徒(いたずら)に表層的なものとして軽視するのは誤りである。他方、私はここで幾つかの美術作品を創造した。もし小説家が、一つの「現実」を創造する代わりに、言葉による「仮構」で事足れりとするのであるならば、芸術作品とて同様ではあるまいか。これが私の投げかける問いである。
表題の『滴り落ちる時計たちの波紋』は、〈白昼〉の中の一節から採られた。私は、ただ何となく長いタイトルをつけてみたかったのだが、関係者からは覚えられないと不評である。
例によって身も蓋もない自作解題を行ったが、私は最近、これを悲観しないようになった。それは、ボルヘスのあの出し惜しみのない「まえがき」や「あとがき」が、別段作品の魅力を殺(そ)ぐことなく、しばしば増しさえしていることに気がついたからである。蓋(けだ)し、作者が創作の意図を秘しておかねば魅力が保たれないような小説は、そもそもが、その程度のつまらない作品なのであろう。