書評

『滴り落ちる時計たちの波紋』について

文: 平野 啓一郎 (作家)

『滴り落ちる時計たちの波紋』 (平野啓一郎 著)

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〈珍事〉以降の五作は、雑誌掲載時には一度に纏めて発表されたが、それは<たまたま>である。〈珍事〉は、末尾の一行のためだけに書かれる類のコントだが、恐らくは〈白昼〉の前半部と連絡を有している。また執筆後に、ボルヘスの〈他者〉との構成上の類似に気がついたが、恐らくはそうした発見自体が、幾分かはボルヘス的である。それは、相応の真実を含んではいるが、結局のところ、検証不可能な、興味深い連想に過ぎない。

〈閉じ込められた少年〉は、前から読んでも後ろから読んでも同じ小説で、必然的にハイライトは作品の中心部となる。私はそこに少年の殺人を配して、彼が永遠にその瞬間に固定されてしまう現実を、脱出口のない言葉の構造の中に定着させようとした。無論これは、語順が決定する「意味」の相対性についての考察であり、時間の不可逆性と言葉の不可逆性との関連の検証である。が、作品が成功しているか否かは、言うまでもなく、リリシズムが能(よ)くこの珍妙な実験に堪えているかどうかにかかっている。

〈瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟〉は、直喩がしばしば早口で語る「物語」を、独立した小説として書き上げてみようという単純な発想から誕生した作品である。プランは二つあった。或る作品に登場するすべての直喩の物語を書くこと。今一つは、各々の中心的な直喩で相互に結び合った二つの小説を並列すること。ここで採用されたのは後者である。

〈瀕死の午後〉は、イタリアのネオ・レアリズモ映画を念頭に置いて書いた作品だが、出来上がったものからはそれを判読することは難しいかもしれない。人は、この作品の「貧困」という主題の扱い方に、或る種の「のんき」を感じるかもしれないが、それは恐らく、本質的な批評である。「社会悪」を扱う際のリアリズムという手法は、常にその動機に於いて、そうした現実に抗議する真摯なイデアリズムを隠し持っているものだが、その場合、作者が必ずしもその「社会悪」の渦中にある訳ではないというのは、この手法の抱える大きな問題である。私は無論、この難点に無自覚であるわけにはいかなかった。困難がある。そこに<否応もなく巻き込まれている人間>と<自らの意志で関与する人間>とは、果たして真に問題を共有することが出来るであろうか。この問いは、〈初七日〉に於ける「想像力の不可能」という主題と通底している。他方、〈波打つ磯の幼い兄弟〉は、リアリズムの体裁を取りながらも、寧(むし)ろ「兄弟」と「災難」という神話的な題材を取り上げた作品である。私の作家的な努力は、いかにして<過失>を合理性の下に維持し続けるかという古典悲劇のドラマトゥルギーを墨守することに向けられていた。最後の悲劇が、弟によってではなく、兄によって齎(もたら)されるという点が、その逆説的な成果である。

〈les petites Passions〉は、勿論、キリストの「受難」を意味するla grande Passionに基づいてつけられたタイトルである。「受難」が即ち「情熱」へと転化するというロマン主義の本質的主題は、既に『一月物語』の中で試みられているが、ここでは少年の切実な夢想としての「小受難図」を描き出すことに力を注いだ。私が「少年」という主題を扱うようになったのは、漸(ようや)く〈氷塊〉(『高瀬川』収録)を書いてからのことだが、事実、私にとってこれは、郷愁と嫌悪とを綯(な)い交ぜにした難しい領域である。スタイルについては、アストゥリアスの『グァテマラ伝説集』が参考になった。

〈くしゃみ〉の主題は、死の「突然性」についてであるが、付加的要素が多少の広がりを与えている。所謂(いわゆる)ブラック・ユーモアとして読まれることは一向に構わないし、作者の意図も幾分それに沿うところがある。

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滴り落ちる時計たちの波紋
平野啓一郎・著

定価:本体600円+税 発売日:2007年06月08日

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