“警察官のありふれた普通の1日”と警察トリビア、空腹時は要注意の“美味しく食べるシーン”がたっぷり盛り込まれた人気シリーズ『サツ飯』。第2弾の刊行を記念して、第1話「ピザトースト」の冒頭部分をためし読み公開します。
ピザトースト
昨夜は平日だというのに痛飲してしまった。いったい何杯飲んだだろう? 不思議なことに二日酔いにはなっていない。きっとお店で勧められたナチュラルワインのお陰だろう。なんでも酸化防止剤である亜硫酸塩とかいう添加物が入っていないから、二日酔いになり難いとか。それとたっぷり食べながら時間をかけて飲んだのが良かったのかもしれない。ふらっと引き寄せられるようにして入った店だったが、あれは当たりだった。
それにしても、パテにテリーヌ、キッシュ、ラペに生ハムなどを盛り合わせたオードブルの次に出てきた『新玉ねぎを丸ごと使ったスープ』には大げさだけれども腰を抜かしそうになった。甘くフレッシュなのに、じんわりと体に染み渡るような深い味わいに思わず「うーん」と唸ったきり、後は無言でスプーンを動かし続けた。
仮に新玉ねぎが手に入ったとて、薄くスライスしてスモークサーモンと合わせるぐらいのことしか思いつかないであろう自分が心底情けなくなるほどの美味さで、「ああ、上手な人が火を通すと、こんなにも美味しくなるのね……」と、ブツブツ独り言を零しながら一滴残さず飲み干した。
スープと一緒に出されたフォカッチャは、いくつ食べても「お代わりいかがですか?」と、次々に焼きたてを持ってきてくれる。「わんこフォカッチャか?」と心の中で突っ込みながら出されるがままに、ほんのり塩味のフォカッチャをつまんでいると、知らず知らずのうちにワインが進む。
メインのロースト・チキンは、皮はパリッと、中はフワッとで、一人で半身も食べてしまった。オードブルやスープを断って、いきなりチキンを出してもらったら、私はきっと軽く丸々一羽を食べてしまうに違いない。それぐらい塩と胡椒だけで味付けし、じっくりとオーブンで焼き上げた鶏肉は美味かった。気に入った料理は自分なりに試行錯誤して再現を試みるのだが、残念ながら我が家には鶏が一羽丸々入るようなオーブンはない。だから食べたくなったら、またあの店に行かねばならぬ。
最後に昭和な喫茶店で出てくるような立派な足つきのガラス容器に季節のフルーツや生クリーム、アイスクリームで飾られた『フルーツ・パフェ』が出てきた。もう満腹! と思っていたはずなのに、たっぷりの珈琲と一緒に平らげてしまった。恐ろしくて今朝は体重計に乗らなかった。
あれだけ飲んで食べたので、それなりの支払いにはなったけれど、満足したから文句はないし、そんな散財をしたのには理由がある。助っ人として一つのコーナーだけを担当していた案件があるのだが、それを丸々担当する羽目になったのだ。
鶏なら丸々一羽を食べるぐらい朝飯前だが、久しぶりに案件を丸々ひとつ担当させられるのは大変だった。しかも、その案件というのは県警の職員向け広報誌『桜花』の制作・編集なのだ。ちなみに助っ人として担当していたのは『サツ飯! 拝見』という県警職員お気に入りの美味しい食事を紹介するだけの超お気楽な仕事だった。
そんな『サツ飯! 拝見』だけを担当するのと、『桜花』全体の制作進行や編集業務を担うのとでは大変さ加減がまるで違う。なんと言っても依頼元は県警本部なのだ。職員向けの広報誌とはいえ、やたらと小難しい法律用語や警察独特の言い回しなどがあって、誤植チェックひとつとっても一筋縄では行かない。必ず出典に照らして一言一句誤りがないか確認せねばならず、新入社員に戻ったかと思うような作業が延々と続く。
もっとも特集企画の立案や寄稿者の選定および依頼、寄せられた草稿の内容確認など、骨格部分はクライアント側の窓口である県警本部総務部広報課の長山修二警部補が担当してくれるので、私は日程と予算の管理および細かな実務周りをこなせばよいだけなのだが、やはり慣れない仕事は疲れる……。
とりあえず丸っと担当した『桜花』が校了まで漕ぎつけたので、昨晩は思わず一人で祝杯を挙げたのだ。お陰で今日は始業時刻ぎりぎりの事務所到着となってしまった。
慌ててパソコンを立ち上げ、なんとか始業を知らせるチャイムが鳴り終わる前にメールを開いてホッとしていると、机の上でスマホが小さく震えた。手に取ってみれば部長からのLINEだった。
《『さち』にいる。適当に抜けて顔をだせ》
「……マジですか」
出社したばかりの部下に、サボって喫茶店まで来いと言う部長って、どうなんだろう? と思いつつ直属の上司である課長の席をちらっと見やる。どうやら得意先にでも直行しているようで見当たらない。シメシメとばかりにスマホを手にそっと席を立ち、そのまま化粧室にでも向かうような顔で階段を降り、裏口から『さち』を目指す。
『さち』は事務所から徒歩一分ほどの距離にある喫茶店で、近隣の会社に勤めているオジサンたちのオアシスだ。扉を開けて店内を覗くと、案の定、ワイシャツや背広姿のオジサンたちで八割ほどの席が埋まっている。その一番奥のボックス席に部長の姿があった。苦虫を嚙み潰したような顔をしてテーブルに広げたスポーツ新聞を睨みつけている。どうやら贔屓の野球チームの成績は芳しくないようだ。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。まあ、座れ」
私は向かい側の席に腰を降ろした。そこへトーストとゆで卵が載せられた皿を手にしたマスターが現れた。
「桜ちゃん、いらっしゃい。何にします?」
この店のマスターは何時も柔和な笑みを絶やさず、落ち着いた声が耳に心地よい。
「えーっと、じゃあ珈琲で」
「モーニングにするかい?」
この問いに、少しばかり躊躇した。『さち』は午前七時の開店から十時までの三時間、モーニング・サービスとして、飲み物を頼めばトーストとゆで卵が無料で付けられる。昨晩の暴飲暴食を考えれば我慢すべきだが、先ほどからトーストの良い香りが鼻をくすぐってくる。
「じゃあ、せっかくだからお願いします!」
「はーい、少しお待ちくださいね」
ふんわかとした声を残してマスターはカウンターへと戻って行った。
「どうせ食うんなら、さっさと頼めばいいじゃないか?」
「ちょっと訳がありまして、今朝は朝食を抜いたんです」
「え? 大丈夫か? どこか悪いのか?」
「いえ、大丈夫です。その、昨晩、ちょっと食べ過ぎたので」
「なーんだ、ならいいや」
そんな返事をしながら部長はトーストを手に取った。『さち』のトーストには、いわゆる普通の食パン一斤を二枚切りか三枚切りにしたような分厚いものが用いられ、これを表面はカリッと、中はふんわりと焼いて供される。
十字に入れられた包丁は底数ミリほどが残され、その切り目の真ん中に置かれた四角いバターが半分ほど溶けかけている。『美味そうな朝食』のビジュアルとしては相当の高得点が期待できるに違いない。
トーストの脇には、小さなガラス容器に載せられたジャムが添えられている。これはマスターのお手製で、旬の果物が使われている。今日は苺ジャムだ。
部長はバターをトースト全体に広げると手で千切り、滴るバターを零さないようにサッと口へ運んだ。向かい側に座る私の鼻先にまでバターの良い香りが漂ってくる。さぞかし美味しいようで、思わずといった様子で部長の口元が緩む。
「やっぱさー、家で食うトーストと、喫茶店で食うトーストは別ものだと思うんだよね」
そこへマスターが、私の珈琲とモーニング・セットを手にして戻ってきた。
「なんで、こんなに美味いの? ヤバイものでも練り込んであるんじゃないの?」
ふざけた部長の言葉にマスターは苦笑を漏らして首を振った。
「馬鹿なことを……。まあ、パンもバターも厳選したものを出してるからね。美味くて当たり前だよ。でも、一番の違いは焼き網だろうね」
「焼き網?」
私と部長の声が重なった。
「うん。普通の家庭では、トースターで焼くと思うんだけど、うちはガスコンロに焼き網を載せて、そのうえでトーストするんだ。セラミックの土台があって、その上に焼き網がセットされたトースト専用の調理器具があってね。網の高さは自分でちょっと加減して、うちのコンロでベストな焼き具合になるようにしてあるんだ」
「へぇ~」
また私と部長の声が重なる。食べ物に関する興味関心はほぼ一緒なので、無理もない。
「話し込んでしまったら、せっかくのトーストが冷めてしまう。じゃあ、ごゆっくり」
そう言い添えてマスターは早々に引っ込んだ。その背中を会釈で見送ると、私はすぐさまおしぼりで手を拭い、珈琲にミルクを落とした。続けて、バターを伸ばさずにトーストを半分に千切る。
「あれ? バター伸ばさないのか?」
「私、バターあっさりで半分、残り半分はバターをたっぷりしみ込ませてと、二種類のトーストを楽しみたいんです」
私は半分に千切った片方にバターの塊をさっと擦り付けると、残った塊はもう半分のトーストのうえで、ゆっくりと溶かし始めた。まずはあっさり目のトーストをさらに半分に千切り、そのまま口へと運ぶ。『サクッ、ふわっ』と軽やかな音を立てるトーストは、その食感だけでも心地よい。
続けてマスター手作りのジャムを載せて、もうひとかじり。甘さ控えめで、ジャムと言うよりもコンポートのような味わい。春先ならではの苺の酸味が活かされている。苺は小ぶりなものをあまり潰さずに使っていて、果肉の味わいとプチプチとした種の食感も楽しい。先月まではリンゴジャムで、これも用いる品種によってじっくり煮詰めたものもあれば、あえてシャリッとした食感を楽しめるように軽く仕上げたものまで色々。一度、「瓶に詰めて売って!」と頼んだことがあるが、作って数日のうちに使い切ることを前提に、保存料などを一切入れていないから難しいと断られてしまった。
ここで珈琲を一口。飲みなれた『さち』のブレンドは、酸味を抑えたまろやかな味わいで、思わず小さな溜め息が漏れてしまう。ゆっくりと口中を珈琲でリセットしながら残ったトーストに手を伸ばす。上手い具合にバターは完全に溶け、その大半がパンへとしみ込んでいる。
滴りそうなバターを零さないように半分に千切ると、パクッと食らいつく。口に含んだ瞬間、じゅわーっとバターが舌のうえを流れ落ちていった。そのバターを追いかけてパン生地が転がり小麦粉の香りが鼻へと抜ける。
モグモグと咀嚼をしながら、シュガー・ポットの蓋をとり、スプーンでグラニュー糖をすくうと、残っていたトーストのうえへと振りかけた。
「お前……、なんて恐ろしい食い方をするんだ!」
「恐ろしい?」
「ああ、恐ろしい。そんなものを俺が食った日にゃあ、次の人間ドックでとんでもない結果がでるに違いない。けど、美味そうだなぁ……。よかった、俺のトーストがなくなったあとで。残ってたら絶対真似したもんな」
大袈裟な物言いに笑いながら、砂糖まみれのトーストを頬張った。グラニュー糖のじゃりじゃりとした食感がなんともジャンキーで、バターとあいまった甘じょっぱさがたまらない。
「きっと味は揚げパンなんかに似てるんだろうな」
部長の声は本当に羨ましそうだった。
「確かに! バターの塩気がありますから、大人の揚げパンって感じですね」
そんな感じでトーストを存分に楽しんだ後は、ゆで卵の殻を丁寧に剥く。普段は大雑把な部長も、卵の殻だけは慎重に剥くようで、その真剣な顔に思わず笑ってしまう。
「最近さ、老眼が酷くて……。ゆで卵の殻を剥くのも一苦労だよ」
「大変ですね」
「笑ってるけど、お前もいずれは、こうなるんだぜ」
『さち』のゆで卵は、いわゆる固ゆでで、テーブルに置いてある小瓶から塩を振って食べると美味しい。ごく普通のゆで卵なのだが、固すぎず柔らかすぎず、白身はしっとりとし、黄身もあまりパサついていない。少し多目に茹でておいて、モーニング・サービスであまった分は、玉子サラダにしてサンドイッチの具にしたり、サラダの飾り付けに使うなどして無駄なく使い切ると、以前にマスターが教えてくれた。
一足早く食べ終えた部長は、おしぼりで手を拭うと、隣の椅子に置いてあったスポーツ新聞を丁寧に畳み直し、マガジンラックに戻しに行った。他に読みたい人がいるであろうことに配慮した訳で、見かけによらず細やかな気遣いのできる人なのだ。
私はお冷で口の中を整えると戻ってきた部長に向き直った。
「さて、わざわざ呼び出したのは何か理由があるんですよね? 一人でモーニングを食べるのが寂しいからって訳じゃないでしょう?」
「まあな。とりあえず、『桜花』の制作をひと通り終えた感想を聞こうと思ってさ。以前は課長クラスが仕切って、細かな実務は経験が浅いとはいえ二人の若手にやらせていたんだ。単純に考えれば二・五人前ぐらいの頭数を投入していたことになる。それをお前ひとりに任せっぱなしにして大丈夫だったかな? ってのが気になってさ。まあ、桜は要領がいいから心配はしてなかったけど」
「うーん、特に大きなトラブルはなかったと思いますけど? それに、かかわる人が増えると連絡とか打ち合わせとか余計な仕事が増えるだけなんで。少なくとも、私は一人でやる方が気楽です」
「ならOK。どうしても大変なら、若い奴でも下につけようかと思ったんだけど?」
「いやいや、面倒を見る方が大変ですから遠慮します」
「あっそ」
部長は珈琲を飲み干すと、「お代わり頂戴」とマスターに声をかけた。慌てて私も残りを飲み干して、「私も!」と告げる。「はーい」という軽やかな返事と共にマスターが珈琲ポットを手に現れ、私たちのカップにたっぷりとお代わりを注ぐと、モーニングのお皿を引き取った。
「ちなみに県警の長山さんから何か言われてませんか?」
「なんで?」
「だって、『桜花』の発注元は、県警総務部広報課ですから。仕事をする私が大変かどうかより、まずは得意先の評価の方が大切だと思うんですけど?」
部長は「へぇ~」と感心した様子で声を漏らした。
「桜も成長したものだな。そこまでのことが言えるなら安心だ。もちろん長山さんに聞いてみたよ。『どうですか?』って。今のところ特に不満はないみたい。だいたい、あの人の指名だからな、桜に『桜花』を丸ごと担当してもらいたいってのは」
「はぁ」
「だから、もっとお前の色を出してもいいとは思うけどね。『もっと分かりやすい、読んでて楽しい「桜花」にしたいんです!』って長山さんは言ってたぞ。その辺の提案をお前がするのを待ってると思うけどね」
「私なりの提案をするとなると、それはそれで、大変そうですね……。そもそも、どれぐらい今までのトーンと変えちゃっていいのか、その辺の匙加減が分かりません」
「まあ、長山さんとよく相談することだな。あ、そうそう、ゲラを見たけど、来週配布予定の『サツ飯! 拝見』で取り上げた味噌ラーメン、あれ美味そうだなぁ」
「美味しかったですよ。スープはあっさりしてるんですけど、挽き肉とたっぷりの野菜をラードで炒めた具からコクが出るみたいで。その上、自家製の味噌ダレが絶妙で……。かんすいをしっかり利かせてコシのある中細ちぢれ麵との相性も抜群でした。あれは本当に美味しかったなぁ。焼き餃子も美味しかったですし、食べ応えのある豚ロースを炒めて味噌ダレで味付けした『トンロースの味噌炒め』も絶品でした」
「相変わらず誌面に登場する以外のものも、色々と食うんだな。あのさ、お前の手が回らなくなったら、『サツ飯! 拝見』だけは俺が直々に手伝ってやるよ」
「え! 部長に手伝ってもらったら、ダメ出しがし難いじゃないですか? それに、そもそも『県警の事情に詳しい人は「桜花」の仕事に関わるべきではないから、俺はダメなんだ』って言ってませんでしたっけ?」
「そうだっけ?」
部長はとぼけているが、確かにそう言ったのだ。
「まあ、いいや。で、次号の制作は、もう始まってるんだろう? 次の『サツ飯! 拝見』は、何を取り上げる予定なんだ?」
「ピザトーストです」
「ピザトースト? そりゃまた、随分とサツ飯っぽくないな」
「そうですか?」
「うん。やっぱ警察官の食事は、ガッツリ重たくないと。なんせ激務なんだから」
「ピザトーストって、十分に重たいと思いますけど? だってチーズとか、たっぷり載せてある訳ですし、パンも普通は厚切りですよね?」
「まあ、確かにな。うーん、そんな話を聞いてたら、なんだか食いたくなってきた。ねぇ、マスター、単品でピザトーストって頼めない?」
さっき、普通のトーストを食べたばかりですよね? と思ったが、黙っておいた。
部長に呼び出されて『さち』でモーニングを食べてから数日後、私は県内を縦貫する在来線に揺られていた。時刻は午後一時半、間もなく目的地である松沢駅に到着するところだ。
平日の中途半端な時間とあって、通勤通学客のいない在来線は、人の姿もまばらだ。穏やかな天気に恵まれて窓から差し込む日差しも暖かく、先ほどまでウトウトしながらの電車旅だった。
けれど目を覚ましてからというもの、お腹が減って減ってたまらない。鞄からペットボトルの緑茶を取り出し、勢いよく数口ほど飲んだが、何の足しにもならない。
『サツ飯! 拝見』の取材日は、あれこれと試食しなければならないからと、朝食を抜いているのだが、それが今日は裏目にでた。それにしても、お腹が減る。いや、お腹が減るなどという生やさしい表現は、とうの昔に通り過ぎ、腹ペコと言ってもいいぐらいだ。そんな私の気持ちなど知らない電車は速度を落とし、松沢駅へとたどり着いた。
改札を抜けると、待合ベンチに県警総務部広報課の長山警部補の姿があった。けれど、相変わらず警察官っぽくない装いで、パッと見た感じではワーキング・ホリデーで田舎へやって来たベンチャー企業の社員のようだ。
「どうも」
私の姿を認めた長山さんが手にしていたスマホをポケットに仕舞いながら、ベンチから立ち上がった。ボタンダウンのシャツにグレーのパンツを合わせ、濃紺のブレザーを羽織り、足元はハイブランドのスニーカーだ。色こそ落ち着いた黒だが鞄はナイロンのビジネストート。このバッグの中に警部補の階級をあらわす身分証が入っていると思う人はいないだろう。
「お待たせしました。……大丈夫なんですか? そんな格好で出歩いて。本部長がコンサバな人で、かっちりとした服装でないと叱られるって言ってませんでしたっけ?」
「そうなんですよ。と言いますかドンドン厳しい方向へ向かってまして、今週の幹部会で『どの部局の職員も、事務所内で勤務する際は原則制服着用』ってことになりました。どうしても制服では都合の悪い場合には、ダークスーツに白いシャツ、地味なネクタイって感じです」
「まるで中学生か高校生ですね、服装チェックがあるなんて」
「本当ですよ……。でも、今日は松沢署に直行して、終わればそのまま直帰します。なので、本部長と顔を合わせる心配はありません」
おいおい、警察官がバレなきゃいいって発想で問題ないのか? と思ったけど、まあいいや。バレたところで叱られるのは私ではないのだ。
「ところで、駅から松沢署まではタクシーですか?」
これまで『サツ飯! 拝見』の取材には、長山さんが運転する県警総務部の車を使っていた。けれど、今回訪問する松沢署は県内最北部にあり、しかも高速道路からは外れているとあって、片道三時間は優にかかるとか。そんな訳で電車での訪問となったのだ。
「いえ、取材に応じてくれる東野さんが迎えに来てくれると言ってましたから」
「え? そうなんですか」
そんな話をしながら駅舎を出ると、ロータリーには一台の軽自動車が停まっていた。スライドドア付きの、いわゆる軽バンと呼ばれる車種だ。その傍らには、四十代半ばといった年格好の女性が立っていた。長山さんが手を挙げると会釈で応えた。
「こちら松沢署生活安全課の東野由梨警部補です」
長山さんの紹介に合わせて東野さんは名刺を差し出した。慌てて鞄から名刺入れを取り出す。まさか取材させてもらう人が駅へ迎えに来るなんて思わなかったのだ。
「パラソルの桜です」
「噂の桜 花さんですね」
そう、私の名前は桜 花という。担当している県警職員向け広報誌『桜花』と同じ。違うのは音読みか訓読みかだけだ。
「元々は、『サツ飯! 拝見』だけを担当してもらってたんですけど、とても優秀なので無理を言って『桜花』を丸ごと担当してもらうようにしたんです」
「丁寧かつソフトな口調で強引な頼みごとをするっていう長山君の手口は健在な訳ね」
長山さんと東野さんは親しいようだ。もちろん県警職員同士なのだから面識ぐらいはあっても不思議ではないけれど、どうやら二人は一緒に働いた経験がありそうだ。
「とりあえず乗ってください。狭くて悪いんですけど」
スライドドアと助手席のドアを開けながら東野さんが促してくれた。長山さんが助手席に手をかけたので、私は素直に後部座席へと腰を降ろした。運転席の真後ろには、チャイルドシートが設置されている。小さなお子さんをお持ちのようだ。
「これは東野さんのお車なんですか?」
「はい、この辺は車がないと不便で、通勤もできません」
言われてみれば、その通りだ。でも、警察の人って、通勤はどうしているのだろう? 電車やバスの中で通勤中といった様子の警察官は見かけたことがないけれど……。
「あの、警察の方って、通勤は、どうされているんですか?」
シートベルトを引っ張りながらさりげなく尋ねてみた。
「民間と一緒ですよ。公共交通機関で通勤できる職員は電車やバスで通います。僕がそうですけど、本部勤務者や都市部の所轄署に勤める職員なんかですね。ちゃんと定期代が支給されます」
長山さんの後を東野さんが引き継いだ。
「対して、私みたいに郊外の所轄署に勤務する職員は自家用車で通勤します。通勤手当も自宅から署までの距離に応じてガソリン代で支払われます」
「ちなみに、警視庁だけは原則として公共交通機関での通勤を義務付けているそうです。東京みたいに地価の高い場所ですと警察署の敷地内に全職員の駐車場を確保するのは無理でしょうし、署の近くの駐車場を借りたりしたら、大変な金額になるに違いありませんからね。それに渋滞次第で時間も読めませんし」
そんな長山さんの話に深く頷きながら、「じゃあ、とりあえず署に向かいますね」と声をかけ、東野さんは静かにアクセルを踏んだ。






