――「御宿かわせみ」の初期傑作選『初春(はる)の客』には蓬田さんのカラー挿絵が約三十点。ちょっと例のない豪華な本になりましたが、そのぶんご苦労も多かったのでは。
単行本にカラーの挿絵がこんなにたくさん入るなんてあまり例のないことですよね。それだけに、一冊全体の大きな流れをどう作っていくか、かなり難しかったですね。どうしても単調になってしまうんです。構図であったり、色調であったりの変化をつけていかないと、いくら一点、一点の絵がうまく描けていても、読者はやがて飽きてしまう。それはどうしても避けたかったので、この作品はこの場面を描きたいという思いよりも、全体を優先しました。その流れを作るまでが大変でしたね。
――ずいぶんと具体的な場面にこだわっておられましたね。もう少し、花や風景といったものや、象徴的な絵が入ってくると思っていました。
「オール讀物」の挿絵ではそれができるんです。雑誌の場合はさっと読んでもらうものですから、挿絵はほんの少しのわさびであればいいわけで、私は人の指先とか、小説には直接は出てこない長屋の室内とかを描きます。でもカラーはそれ自体がきれいだから、つい読者はじっくり見てしまうことになるんです。そこでもし雑誌の挿絵のように実際の場面にはないものを描いてしまうと、逆に、これは何だろう、どういう意味だろうと読者が考えてしまう。そうなると、そこで物語を読む流れを止めてしまうと思うんです。息抜きとしてカラーの絵を見ることはできないんです。ページを開いたら、見開きで絵が入ってくるんですから。場面、場面を描写していくことで、素直に楽しんでもらいたいと思いました。
もうひとつ、読者も初めてカラーの挿絵を見るわけで、期待も大きいと思うんです。それが、別にこの物語ではなくてもいい花や風景では、物足りないですよね。特にこの本は傑作選ですから、多くの読者はお話の内容はすでに知っている。そういう読者には、絵描きはこの物語なり場面なりにどんなイメージを出してくるのか、自分が抱いていたイメージとどう違うか、そういう楽しみもあるはずです。その期待に応えてやれと思ったんです。ぶっちゃけた話、せっかくカラーなんだし、いろんなものを描かないともったいないという気もあるんです、絵描きとしてはね。
ただ、これにはまた難しい問題もありまして。これまで、東吾やおるいさんの顔を書くことは、ほとんどなかったんですね。一度『「御宿かわせみ」読本』という本におるいさんの顔を使ったことがあるくらい。
でも今回、二人と、それから麻生宗太郎、畝(うね)源三郎といった登場人物たちの顔を具体的に描き込んでいます。そうなると、読者の中に彼らのイメージが出来てしまいますよね。今後、中期、後期傑作選(平成十七年、十八年に刊行予定)に絵をつける際や、掲載誌の「オール讀物」の挿絵を描く折も、そのイメージを外すことができなくなるんです。つまり、もう後戻りできない(笑)。だから何点も何点も納得のいくまで下書きをしました。
――小説家によっては、登場人物の顔を具体的に描かれるのを嫌がる方もいらっしゃいますよね。
その人物の人間性まで表現してしまいますから、絵というのは。つまり作者である平岩先生が、こういうイメージじゃないのにと思う可能性もあるわけで、そういう意味では怖いというか、責任の重さを感じましたね。
これから二巻目を考える際には、一巻目と同じような流れでいくと、読者の方で絵に対する新鮮味が薄れますよね。カラーに対する驚きはもうないんですから。そうなると、いまお話ししたような工夫だけでは読者に飽きられてしまうし、絵描きとしても面白くない。三巻目ならなおのことです。多少の抽象性や極端な構図上の工夫で、冒険をしてみようかなとも考えてるんです。
なつかしい日本人気質
――調べてみましたら、「オール讀物」の挿絵は昭和六十三年の一月号から、単行本の装画は二十一巻目の『春の高瀬舟』からで八冊、文庫は二十巻目の『お吉の茶碗』からで、これも八冊です。今年の三月から文庫の新装版の刊行が始まりますが、すべて蓬田さんの装画にかわります。「かわせみ」の魅力を語っていただけますか。
古い新しいに関係ない日本人の持っている気質のようなもの、それから夫婦愛とか肉親に対する情愛ですとか、友情とか、そういう人間愛が作品のベースにあって、その上に毎月毎月の物語があるんです。
だからまどろっこしくない。東吾といえば勇気にあふれてみんなから頼られる日本男児ですし、おるいさんは優しく美しい日本女性。畝源三郎、お吉や嘉助、長助といった登場人物も、それぞれの生まれた環境や育った環境がわかっていて、その人間性や倫理観がはっきりしているんです。そこまで組み立てられている小説世界。
ですから、月初めに「オール讀物」の編集部から原稿をいただいて読みますよね、それが私の毎月の精神安定剤になってるんですよ。私にとってそういう作品ですし、多くの読者も同じような感覚をもっておられるんじゃないでしょうか。
最初に挿絵の依頼を受けたときは、正直言ってビビりましたよ。テレビでは知っていて、なんともいえないあたたかさを感じてはいたんですが、恥ずかしながら、読んだことはなかったんです。ベストセラー作品だし、できるかなあと。
でも、原稿を読んだとき、初めて読む世界という気が少しもしませんでした。自然に入っていけるし、登場人物たちの人間性にみな納得がいくんですよね。
もちろんテレビで知っていたということもあるんでしょうけれど、そういえば親父も同じようなことをいってたなあとか、お袋にもこんな面があったなあと、とてもなつかしく感じたからなんだと思うんです。ああ、感じるままに楽に描けばいいんだ、自分だってよく知っている世界なんだからと思ったら、急にプレッシャーがなくなりましてね、自然に筆が動いたんです。
――いろいろな時代小説作家とお組みになられています。時代小説の絵についてどうお考えですか。
作品世界をいったん自分の中に消化した上で、その裏側にあるもの、活字では表現できなかったものを描きたいですね。読者がまず見て、あれ、なぜこういう絵になったのかなあと疑問を持つ。読んでみると、なるほど、書かれてはいないけれど、この世界の裏にはこんなものがあるんだ、と思ってもらえるような絵です。そのことで小説の世界により広がりや深みが出る。作家の中にはそれを嫌がる方もいらっしゃるのでしょうけれど、私が絵を担当した方はみな、それをよしとしてくださいました。
――時代小説の絵には細部の正確な考証が求められますね。着物の柄とか髪型とか。
そういうものはその都度その都度、調べながら覚えていくしかないんですが、むずかしいのは、そうした考証ごとにがんじがらめになってしまうと、構図とか省略とかによって生まれる美しさを失ってしまうことなんです。ヨーロッパ人が浮世絵を観て感動したのは、極端なデフォルメや構図の取り方で生じる美しさ、空間の描写力とそれによって生まれる美だったと思うんです。北斎とか広重を思い浮かべていただければいいと思うんですが、この感性はヨーロッパにはないもので、彼らはそれに憧れたんだと思う。浮世絵がもっていた美を挿絵で表現できたらと思っているんです。