スパイ事件との縁はまだ続く。
ことの詳細は、本文に譲るが、私が東京大学法学部を卒業して、警察庁に入ったのが一九五四年(昭和二十九年)四月。なんと、その年に、ソ連大使館の二等書記官ユーリー・ラストボロフがアメリカに亡命している事実が判明したのだ(実際の亡命は同年一月)。
亡命に際して、彼や仲間たちが協力者として重用していた三十六人の日本人らの暗号名を置き土産として証言していた。それをもとに取り調べを受けた外交官などから自殺者も出た。
後に、日本から亡命先のアメリカに警官(山本鎮彦氏ら)を派遣し、暗号名の人物に関して詳細な個人情報を入手し、再捜査などを行なった。私は、そのとき、警視庁公安部外事課、ソ連欧米担当の主任警部として、関係者への捜査を担った(第一、三章、四章)。
そして、一九七九年(昭和五十四年)にはレフチェンコ事件(第二章)が起こる。そして彼の証言に続いて一九八〇年(昭和五十五年)には宮永スパイ事件(第二章)が連続して起こった、一九七九年(昭和五十四年)から一九八〇年(昭和五十五年)にかけては、私はある事情で警察から防衛庁に出向しており、防衛庁教育参事官や人事教育局長をやっていた。その関係で、このスパイ事件も、直接の捜査こそはしなかったが、防衛機密がらみの「身内」での犯罪ということで、大きな衝撃を受けたものだった。国会でもしばしば追及され答弁に立った。
本書では、そういうさまざまな形で遭遇したスパイたちを回想していく。中には、私が「外交官」(香港総領事)であった時に、スパイとして活用した中国人スパイの話も出てくる(第一章)。
そして、私の警察、防衛に於ける職歴年譜の中で、「謎の空白」となっていた一九五九年(昭和三十四年)十一月(関東管区警察局監務課調査官)から一九六〇年七月(警視庁公安部外事課)の半年の間、実は密かにアメリカに派遣され、ジョージタウン大学の「研修生」という「名目」で、アメリカのFBIやCIAでスパイ摘発のさまざまな訓練や学習を受けていたのだ。そのときの体験が、その後のスパイや過激派との戦いにおいて役立ったことはいうまでもないが、その時の見聞も本書に綴った(第二章)。
また、今まで書いてきた書で回顧した、さまざまなスパイの話も本書に出てくるが、ゾルゲ、ラストボロフ、レフチェンコから瀬島龍三まで、まとめて回顧するスパイものは本書が初めてで最後となるだろう。
二〇一六年(平成二十八年)二月
(「はじめに」より)
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