
- 2003.09.20
- インタビュー・対談
〈ロング対談〉新世紀本格の最前線 笠井潔×歌野晶午
「本の話」編集部
『葉桜の季節に君を想うということ』 (歌野晶午 著)
出典 : #本の話
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
本格的社会性とは
歌野 谺(こだま)健二さんの『赫い月照』は読まれましたか?
笠井 読みました。
歌野 僕はこの作品を読んで、ものすごいエネルギーを感じたのですが、一方でどう解釈していいかよく分からない部分もある。どこで自分が戸惑っているかというと、これでもかと出てくるトリックのほとんどが、別にこんなトリックなくてもいいじゃないかというようなものなんです。山田正紀さんの『ミステリ・オペラ』にも、そういうトリックがたくさん出てきますが、あの作品にはそんなことを許してしまえる全体的な世界観があって、読み終わったときには、全部が素晴らしいという気持ちになりました。
ところが、『赫い月照』の場合はそういう気持ちになれなくて、何が違うんだといったら、もちろん作者が違うし、書いていることが違うわけですが、一番違うのは扱っている題材だと思うんです。『ミステリ・オペラ』における満州国というのは歴史的な事実だけど、僕にとってみればお伽話のようなものです。一方『赫い月照』の酒鬼薔薇事件の場合、実際に自分が知っている。リアルタイムでニュースで見たようなことを、トリッキーな本格ミステリとして展開されるとどうしても違和感が残るんです。本格として社会問題を扱うことの難しさを感じました。
笠井 さっき社会派的社会性と本格的社会性は違うという話をしましたが、例えば横溝正史の『獄門島』は、復員兵問題という、当時、最もホットな社会問題がベースにあるわけです。ただし、こんなひどい目にあった人が帰ってきて、悲惨だ、戦争はよくないといったメッセージは背景に沈んでいて、根本的にはトリックを成り立たせるために復員兵問題を使っている。
社会派的社会性というか、一般小説でもいいんだけど、戦争の悲惨さを訴えるような小説は、復員兵問題を含めて戦争という現実を通過した人間にはリアルに響かないところがあっただろうと、僕は思うんです。人間にはあんまり悲惨なことを体験すると笑っちゃうしかないというところがあって、深刻な顔をして弾劾したりするというのは、弾劾するエネルギーが残っているぶん、本当にひどい目にあっていないのではないかという疑いを、僕は社会派的社会性にたいして持ちますね。
谺君は自身が体験した阪神・淡路大震災をトリックにしたところから出発しているんだけど、これこそ本格に固有の社会性というもので、そういう行き方自体はなかなかいいと思うんです。ただ、その延長で書き続けてきて、作品にトラウマ(心的外傷)問題を繰り込んでいくに従って、社会派的社会性のほうに寄っていっているような節もあって、そのあたりが微妙ですね。
歌野 だからこの先どうなっちゃうのか。一つはもう神戸の地震から離れて全く違うものを書くのか、もしくはミステリから離れるかのどっちかだと思ったんです。だけど、あの生々しさというか、読んでいてすごいエネルギーが伝わってくる。僕の中では名作と駄作の境界線にあるような印象なんですよ。中途半端な佳作ではなく。
笠井 たぶん谺君も参考文献にしていると思うんだけど、一九九二年にジュディス・L・ハーマンというアメリカの精神医学者が書いた『心的外傷と回復』という本があります。トラウマの問題、特に女性のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を取り上げて非常に話題になったんですが、これがものすごく問題がある本なんです。
七〇年代から、ベトナム帰還兵たちの戦争神経症が社会問題になっていたのですが、ハーマンは、男のPTSDが戦争神経症だとすると、女のPTSDは幼少期の性的虐待であるというわけです。それがフェミニズムの影響などもあって、八〇年代のアメリカで大きな影響力を持った。アメリカの心理療法家や精神医たちが、神経症的な症状を訴えてくる女性患者に対して、性的虐待の隠された記憶を掘り起こすということをやり始めたんです。その結果、たくさんの患者たちが忘却していた記憶を思い出して、自分の父親や家族をレイプや虐待の罪で告訴するという事態になった。
ところが、九〇年代の後半に入って、そうした裁判の多くが原告側の敗訴に終わってきます。もちろん、勝訴の例もあったわけですが、訴えた女性たちが思い出したと思い込んでいた記憶が、じつは心理療法家や精神医たちが暗示や誘導によって植え付けた偽りの記憶だったというケースも多かったんですね。それで、今度は逆襲が始まって、偽の記憶を思い出させた精神医や心理療法家が逆に告訴されるようになった。
トラウマ問題をミステリに組み込むとき、谺健二はまだハーマン的水準で捉えているところがあるように思うんです。トラウマやPTSDは、それほど無条件には前提にならないんじゃないかという疑いが、まだあの人の捉え方にはないような気がします。だけど、谺君の場合、荒唐無稽で笑うしかないような物理的トリックが外傷体験と抱き合わせになっている限りは、バランスがとれているとも思うんですが。
歌野 あと、最近の作品で言うと、昨年、法月さんが出した『法月綸太郎の功績』を読んだときに、これは料理にたとえると非常に出来のいいスープストックだなと感じたんです。つまり、コックであれば作れなくてはいけないスープの基本があるように、本格の実作者が本来、達成していなくてはならない基本を、高いレベルで示してくれたと。
笠井 法月君も、別にスープストックだけでいいと思っているわけではないだろうから、今度、長編を出すみたいだけど(笑)。
歌野 いや、逆に短編だからこそ味つけや盛りつけでごまかせないから、本当に基本的なところだけを純粋な形で見せつけられたと思うんです。あれを読んで目が覚めた思いです。
それと、最近の若い書き手では乙一さんはとにかくすごいと思いました。ほかの若い人はまだあまり読んでないのですが、総じて感じることは、みなさん達者で、文章力なんかは僕がデビューしたときよりも随分あるなと。
笠井 いや、それは歌野君がちゃんと小説を書こうと思っていたからぎこちなかったんであって、彼らは小説書こうと思うほど大量に系統的に小説を読んでいないから。マンガとかゲームとかアニメを、言葉を主とする形式で書いたらどうなるか、という発想ですから、逆にこなれているんです。もともと近代小説作家として伝統的にあるべきものとされてきたような、いまとなっては余分で無駄な悩みなどもたない。これってやっぱり無視できない流れだね。
歌野 そうですね。僕はこれまでそういう流れを気に留めていなかったのですが、笠井さんの『魔』の巻末のインタビューを読むと、あえてライバル視するというか、そういう感じで捉えていますよね。六十歳が六十歳に向けて書いてもしょうがない、作者が何歳になっても若い人たちに向けて書かなきゃいけない、というのを読んだときに目から鱗(うろこ)が落ちたというか、全くそういうことを考えてなかったんで……。
笠井 僕は清涼院流水評価を間違えたと反省しているところがあって、作品の評価については別に間違っていないんですが、僕はあれは一代雑種だと思ったわけ。簡単に言えば本格とゲームの一代雑種だと。レオポンは子孫は作れないんだから、京大ミステリ研の先輩たちのように血相を変えて批難する必要はないと思っていた。ところがその後、続々と清涼院チルドレンが生まれてしまった。これはもう判断の間違いであって、今、なぜそういうことになったのかということを「ミステリ・マガジン」の連載で考えているんです。
歌野 最近、鳴りをひそめてますね、清涼院(笑)。
笠井 清涼院は清涼院チルドレンに乗り越えられてしまったのかな。とにかく今後に注目しましょう。