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第9回 生みたい気持ちの成分は

きみは赤ちゃん

川上未映子

きみは赤ちゃん

川上未映子

くわしく
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 年が明けて1月もすっかり終わってしまい、妊娠も25週を越えたころ。お腹はまだそんなに大きくはなっていないけれど、しかしもちろん、ぱっと見れば、あなた妊娠してますね! と、わかる程度には大きくなっていて、見た目にも妊婦感が色濃くなってはきているのだった。しかしそれよりもなによりもすごいのは、お腹のなかで赤ちゃんの動きまわるその激しさ。感覚としては腸が独自に動く感じというのかしら。蹴る、という明確な感じではまだなくて、腸にたまったガスがちょっとかたまって、それがぐるぐるまわっているというような、そういう感じ。

 そして、食欲は相変わらずの旺盛ぶりで、三食はむろん欠かさず、ある日はおやつにスパゲティとチョコバナナワッフル&ソフトクリームを食べていたりしているのだから、今からじゃ、これはちょっとさすがに信じられない量だよね。あべちゃんは、ため息をついて「それくらいにしときなさいよ……」というのが、口癖になっているのだった。

 それにしても、こうやって妊婦は快調に太っていくのだな。そして、つわりの始まりにしても、終わりにしても、そのあとのもろもろに関しても、妊娠中の体って、ほんとうにもうそれは教科書どおりに変化していくので(ありがたいことでもあるんですが)、そのことにちょっと驚いたりもするのだった。意志とかそういうのが、まったくちからを持たないような、そんな気がして。

 

 ちょうどこのころ、テレビで政治家の野田聖子さんの妊娠、出産、そして生まれた息子さんの闘病のドキュメント番組が放送されて、大きな話題になった。わたしも直前に放送のことを知って見ることができたのだけれど、自分が現在、妊娠しているということもあって、いろいろ考えさせられる、なんともヘヴィーな視聴になった。

 日本では認められていない不妊治療を外国で受け、そして赤ちゃんを授かったのだけれど、生まれてきた赤ちゃんは複数の障害をもっており、生まれた直後から度重なる手術を受けつづけなければならない状態で、その様子を詳細に記録する、という内容だった。

 放送後、色んな人が色んなことを言ったけど、わたしが最初に抱いた感想は、「野田聖子の人生は、野田聖子の人生だよな」というようなものだった。

「子どもがかわいそうだよ」っていう意見がとても多かったけれど、でも、ある人が「50歳で子どもがほしいと思って、実現できる状況があったのでそうした」ことと、「たくさん障害をもって生まれてきて手術で痛い思いをする子どもがかわいそう」という共感と現状のふたつには、やはり何の関係もないと思うからだった。ある人がそう生きたい、と思うことに、思ったその時点で、どうして他人がそのことに口を出すことができるだろう。動機と結果のこのふたつは混同されがちなんだけど、はっきり、べつのものだと思う。

 だから、生んだ野田聖子さん本人だって、そんなふうにたくさん痛い思いをしなければならない息子さんがかわいそうだ、不憫だ、と思うだろうし、思ってよいのだし、思うのはふつうのことなのだけど、もしそういうことをテレビの中で口にでもしたら、「そんなふうに自分が生んでおいて、どの口が言うのか」、と条件反射的に嫌悪感を示す人が、きっと、すごく多いんだろうな、というような気がした。

 

 基本的に「年齢もこんなになってから生むなんて、この出産、野田聖子さんのエゴすぎる」っていう先入観とか意見とかが、とにかく多いみたいだった。でも、そんな批判はまったく成り立たないと思う。だってすべての出産は、親のエゴだから。「女に生まれたからには一度は生みたい」「愛する人の子どもがほしい」「やっぱ遺伝子残したいよね」っていうのと、「野田の跡継ぎがほしい」っていうのに、動機としての優劣なんて、もちろん、ない。それに、赤ちゃんの健康は、特殊な例をのぞけば、ほぼ偶然が支配しているものなのだし、健康な赤ちゃんが生まれてきたとしても、それは母親の手柄でもなんでもないよ。50歳だろうと、20歳だろうと、生んでみるまで、また、生んでからも、赤ちゃんのことはわからない。リスクはみんな一緒だし、無事に生まれてきてほしいと思う気持ちだって、みんな、おなじなのだしな。

 だから、「生んでもらった」「生んでくれた」「生んであげた」みたいな応酬というか定形みたいなのを、もうそろそろやめたほうがいいんじゃないのかな、とテレビを見ていて何度も思った。もちろん、出産は命がけの非常事態で、それじたいはすさまじいものなんだけど、でもそれは親になる人が勝手に望んでやっていることなのだしなあ。その文脈で、個人的に胸をうたれたのは、野田さん自身が「丈夫に生んでやれなくってごめんね」とか「わたしのせいで」みたいなことを、一度も口にしなかったことだった。

 

 とまあ、こんなふうにざあっといろいろなことを考えさせられたわけなんだけど、現実問題としてこの状況って、今後かなり一般化するような、そんな気もした。野田さんのケースは経済状況もふくめて、いまはまだレアケース、って感じで受け止められているけれど、これからどんどん増えていくだろうし、これからの女性たちにとって野田さんの経験は他人事じゃなくなる気もするんだよね。政治家として、前例がほとんどないなかで、これを大きく問題提起したことは意義あることだと思う、その半面……正直、なによりも大きな問題として、考えるとちょっと暗い気持ちになってしまうのは、やっぱり息子さんのプライバシーにかんすること。自分で承知するまえに、親を経由して、否応なく──名前、病歴、顔……個人情報のそのすべてが人の知るところになってしまったことは、気の毒だと思ってしまう。「野田聖子の人生は、野田聖子の人生だ」とわたしはたしかに思ったけれど、それはあくまで野田聖子のからだのなかで起きている事態にのみ有効なものであって、生まれてきたあとの子どもにたいしては、それはもう、どこまでも細心の注意を払わなければならないと思う。

 どこからが自分のことで、どこからが、自分のことではないのか。

 ひとつの生活についてくまなく記録しようとするとき、できるだけ詳細に表したいと願うとき、これはたしかにむずかしいことではあるけれど、でもその線引きは、なによりも優先されるべき姿勢であり、どうじに技術であると、そう思う。もちろんこの「きみは赤ちゃん」だって例外ではなく、じつはそこにいちばん緊張感をもって、どきどきしながら書き進めているわけであって、ああ、自戒をこめて、そんなことを思うのだった。

 

 それにしても妊娠中は、まだ半年がようやっと過ぎようとしている今でさえ、何種類もの不安が、すでにいくつもうずまいている。妊娠してから芽生えた不安もあるけれど、妊娠なんてするかしないかも全然まったくわからなかった10代の頃から、じつはわたしには抱えていた不安がひとつあるのだった。

 それは、夢にかんすること。女の子がどれくらい妊娠にまつわる夢をみるものなのかはわからないんだけど、わたしは10代の頃から、そういう夢をかなりみるほうだった。

 夢の中で、どういうわけか妊娠していて、そしてお腹がどんどん大きくなっていって、生むしかなくなり、夢のなかで、その迫りくるすべて、逃れようのないすべて、取り返しのつかないすべてに、すさまじい恐怖を感じている。そしてばっと目がさめて、がばっと夢から起きあがってみると、わたしのお腹はひらたいままで、ああ、妊娠は夢だったと知って、これ以上はない安堵のためいきを、胸の底から思い切り吐いて、ああ夢だった、夢でよかった、ほんとうによかった、と、何度もそういうことを体験してきたのだった。そしてそのときに思ったことは「いつか、わたしの身に、これとは逆のことが起きてしまうのじゃないか」ということだった。つまり、いまとおなじような夢をみて、もしそのときにほんとうに妊娠していたとしたら、夢から覚めてもわたしのお腹は大きいままであって、その現実にふくらだお腹をみたときに、わたしはいったいどうするのだろう、という恐怖だった。覚めない悪夢のおそろしさだった。妊娠する夢をみて、それが夢だとわかって安堵するのをくりかえしながら、わたしはずうっと、そんなこと考えていたのだった。
 

 けれどじっさいは。妊娠して半年以上がたつこのときまで、わたしは10代の頃に頻繁にみていたあれらの妊娠恐怖の夢をまだ、一度もみたことがないのだよね。ぜったいみると思っていたのに、あんなにおそれていたのに、まだ一度もみたことないし、妊娠中はけっきょく最後まで、そういった夢をみることはなかった。どうしてみないのだろうかと、そんなことを考えてももちろん答えはでるはずもないのだけれども。これはこれで、わたしにとってはほっとすることであったとどうじに、とても不思議で、また、どこか示唆的なものでもあるのだった。あんなに、あんなにみたのになあ。
 

 おそろしい夢はみなかったけれど。目覚めて絶叫せずにはすんだけれど。でも。ああ。妊娠するだけで(というか、一大事ではあるのだけれど)、こんなにも、こんなにも、考えること、感じることが圧倒的にふくらんで、いったいこれは、なんだろう。心配ごと、不安なこと……自分のものも、そうでないものもたくさんたくさんとりこんで、それを自分のなかで、むやみやたらに増殖させているみたいな気持ちにさえ、なってしまう。具体的にこれといったことなんてないのに、ただただ、なんだか心細い。気持ちがゆれて、油断したらなぜだか涙が垂れてしまう。そしてわたしは、はたと気がつく。もしかしてこれが。もしかして、これが。……う、うわさのマタニティーブルーってやつなのか。マタニティー・ブルーって、これとちゃうの。そしてわたしはここからまるまる1ヶ月ほど、「完全に完璧などこからどうみてもマタニティー・ブルーの人」として、生きることになるのだった。

文春文庫
きみは赤ちゃん
川上未映子

定価:792円(税込)発売日:2017年05月10日

電子書籍
きみは赤ちゃん
川上未映子

発売日:2017年05月19日

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