- 2014.10.24
- 書評
「世界の警察官」ではなくなった「アメリカ帝国」は如何にして衰亡していくか
文:中西 輝政
『アメリカ外交の魂 帝国の理念と本能』 (中西輝政 著)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#政治・経済・ビジネス
それゆえ今回、かなりの思い入れをもって本書の文庫化に取り組んだ。実は当初の単行本の刊行に際しては、種々な事情で、文章の推敲や読みやすさを考慮して手を入れる余裕が殆どなかった。しかしアメリカと世界との関わりを、大きな歴史的視野の中において、文明史あるいは精神史的な深い考察を行おうとする本書の性格から言って、晦渋な表現は可能な限り少なくしておかねばならない。そのような思いから、今回、文庫化にあたっては、とくにこの点に意を用い、本書のそうした本来的なあり方と両立させつつ、極力読みやすさを考え表現上の加筆・修正を行った。単行本と比べ、かなり読みやすくなっているのでは、と思う。もとより文庫化の意義を尊重し内容や論述の中味に関わるような修正は全く施していない。
また今回、あらためて本書を何度も読み返してみて、アメリカ外交史論、あるいは外交問題を焦点に据えたアメリカの精神史ないし文明論という本書の性格と、そこで取られている個々の考察・論述の視点は殆ど変えようもないほど深く融合したものになっているということを痛感した。
「なぜアメリカ外交は、これほど大きく、かつ劇的な仕方で振り子を振るように変転を繰り返すのか」。
実際、私がこの四十年間、アメリカ外交をめぐる日々の出来事や時事的な関心から始まって、より深くアメリカ外交を理解するにはアメリカの歴史、とりわけその精神的な歴史を踏えた視点の重要さに目を向けるようになっていったのは、終始、右のような疑問に導かれてのことであった。そこからキリスト教とりわけプロテスタンティズムの深い理解が必要だと気づき、私自身クリスチアンではない身でありながら時には不遜なほど、その教義を外から独自に解釈し歴史の考察の中に取り込むという手法を用いることになった。アメリカという国は、そうすることによってしか、真に理解し得ないと思うからである。
近代以降、これまで多くの日本人のアメリカへの視点が、なぜか「深みのない」ものに終始してきたのには、勿論いくつかの要因があろう。ある人は端的に、「それはアメリカという国自体が深みのない国だからだ」と言ったものだが、果してそうか。日本人は、文明としての「アメリカ」を見るときに、過度に物質主義的な要素を大きく捉え、ともすればそこに全てを収斂させて理解しようとする傾向があるように思う。単行本のあとがきでも触れたように、私は、このことをかつて和辻哲郎が戦時中に書いた論文「アメリカの国民性」を読んだときに強く感じたものだ(『思想』昭和十九年二月号)。だとすれば、この七十年間の日本人のアメリカ理解は、皮相的な敵国分析の次元から余り深化していない、ということになる。
私の到達した一応の結論として、それはアメリカの歴史を見る我々の姿勢の問題なのであり、二〇世紀の病弊としての唯物論の呪縛を脱して、どの国の歴史もより深く、そして虚心に見つめてゆけば、そこに精神的あるいは文明史的な要素の重大性が浮び上ってくるはずだ、というものである。それゆえ本書は、一貫してそうした視点から書かれたものになっているのである。
最後に、これまた単行本の「あとがき」に書いたことであるが、ここでもう一度確認しておきたいのは、本書が、私の研究生活の永年の目標としてきた「三つの帝国論」の一つとなっているということである。日本の近代史と深く関わった米、英、中の三つの国の国際政治の歴史をそれぞれの「帝国論」としてまとめる、という無謀な企図を四十年前の大学院生のときに自らに課し、以来ずっとそれをめざしてきた。そして、この十年余りの間に、それらを『大英帝国衰亡史』、『帝国としての中国』、そして本書『アメリカ外交の魂』という形で順次刊行してきたのであるが、今般そのいずれもが、時を同じくして文庫化や「新版」の刊行などで再び世に出る機会が与えられることになった。ようやく世の中の見方が、私のそれに追いついてきたのか、と素直によろこびたいと思う。
実際、この三作に加えて『国民の文明史』(産経新聞社 平成十五年)を合せ、これら四つの作品が「中西さんのライフワークですね」と言ってくれた人がいたが、その拙さを十分に自覚している者として、今回の本書の文庫化を大切な機縁として尚、一層の研鑽に励みたいと思う。
平成二十六年九月