
子どもの頃、私にとってスズメは残念な鳥だった。台風が来て、明日は学校が休みになるはず、と楽しみにしていたのに、朝、雨戸を開けるとスズメが鳴いている。こちらの気持を見透かし、愉快でならないとでもいうように屋根を飛び跳ねている。彼らのさえずりに急かされながら、いやいやランドセルを背負ったことが幾度かあった。
どんなに鳥に無関心な人でも、最低限スズメくらいは知っている。稲刈りがすんだあとの田んぼに群れる、案山子(かかし)を恐がる臆病で地味な鳥。それがスズメだ。目の前にスズメがいたとしても、ほとんどそれは風景と同化し、誰からも顧みられない。色が綺麗なわけでも、可愛い飾りがあるわけでもない。
そんなスズメにこれほど豊かな心があると、一体どうして信じられるだろうか。しかし間違いなく、寡婦のピアニスト、クレア・キップスがスズメの心を引き出した。また同時に彼女はクラレンスから、与えた以上のものを受け取った。種の垣根を越えた二つの心が、平等の立場で互いを支え合う軌跡が、タイトルのとおり本書には記録されている。
雄のラブラドール・レトリバーと十四年間一緒に暮らした結果、私が得た真理は、人間には犬と出会う人生、出会わない人生、二種類があるというものだった。この二つは交わらない。分かれ道にある二種類の扉、どちらを開けるかによって全く異なる展開がひらけてくる。
そして本書を読んだ時、私は知った。同じことが鳥についても当てはまるのだ。
その日キップスは、不自由な体を持つ一羽の小さな鳥とともに生きる方の扉を、迷いなく開けた。スズメもまた、彼自身の選択を超越した何ものかの計らいにより、鳥を愛する孤独な女性の家の扉をノックした。どちらにとってもそれは、善き扉だった。お互いを祝福し合える選択だった。共にそう確信できる人生を、優しさと知恵と忍耐と勇気によって築いていった。
クラレンスが生まれて初めて発したのは、まるで細いヘアピンがさえずったかのような、か細く、しかし幸せそうな声だった。以降、折々でヘアピンは大事な意味を持つことになる。戦時中、不安な暮らしをする人々を慰めるエンターテイナーとして活躍した日々、それは綱引きの小道具となった。また巣作りの時期を迎えた時、土台の材料に選ばれた。晩年、病を得て弱ってからは、黙想する老人にとってのパイプ、あるいは昔の栄光を懐かしむトロフィーの役割を果たした。もしクラレンスのために何か印をデザインするなら、“勇気と満足を意味する二つの尖端をもつ”ヘアピンを模様にする、とキップスは書いている。
クラレンスの象徴が、小枝でも葉っぱでも木の実でもなくヘアピンであることが、彼の人生を見事に物語っている。キップスの髪に隠れたヘアピンは、“母なる自然が無料で融通してくれる”ものと同じだった。外の世界では生きていけないクラレンスにとって、キップスこそが自然そのものであり、世界のすべてであった。
また彼女もそのことを十分に承知し、自分が誰かの命を支えるためのすべてになるという責任を全うした。理屈で考えれば相当に重いはずの責任を、ある時は本能的ともいえる気楽さで、ある時は人間性の根幹に根ざす思慮深さを持って背負った。
ところで、キップスがピアニストであった事実は、素晴らしい偶然としか言いようがない。ジュウシマツの鳴き声から言葉の起源を研究している岡ノ谷一夫先生の実験室を訪ねた折り、雛は求愛の歌を父親から学び、強制的に親から切り離して無音の中で成長させると上手く歌えない、というお話を伺った。となればクラレンスの手本となるのは当然、キップスになる。彼女のピアノがあってこそ、彼は自分の歌を成長させ、磨き上げることができた。
彼は音楽に反応し、感情を高ぶらせた。キップスがいないところで一人練習を重ね、メロディーを生み出し、技巧を駆使して更に曲を膨らませていった。鳥は単に持って生まれたものだけを使って、何も考えずに歌っているのではない。学習し、努力している。練習のために孤独な時間を求める。その果てに彼は、ピアニストも感嘆させるほどの作曲家兼歌い手になった。キップスは彼の音楽の中に“疑う余地のない「美」”を見出している。芸術は人間だけの特権にはおさまらない。掌に載るほどの生きものも、それを創造しているのである。
ただクラレンスの歌は、本来の目的、つまり求愛のために使われることはなかった。ここで私は、岡ノ谷先生の実験室に、パンダと名付けられた一羽のジュウシマツがいたのを思い出す。パンダは他の誰も真似できない、複雑で長大な歌をうたうことができた。実験室の歴史上、最も偉大な天才、ジュウシマツの中のモーツァルトだった。そのパンダもまた、自分の歌声を使って求愛しようとはしなかった。メスのためではなく、自分のためだけに歌った。子孫を残す実用的な目的より、自分の生み出す美に自分でうっとりするという純粋な喜びの方が、上回ったのだ。
クラレンスの場合も似たような現象が起きたのだろう。体と環境の問題から、彼の歌には元々の目的が設定されていなかった。彼には、美を表現するためだけに歌う自由が許されていた。そのうえ最上の先生がついていた。こういうすべての運を活かしきるだけの才能を、クラレンスは持っていた。
歴史ある美術館や、大きなコンサートホールや、立派な図書館などではない、どこか世界の片隅の、ありふれた家の中にもちゃんと美の表現者はいる。そう思うとなぜか幸福な気持になってくる。自分の生きている世界の隅々が、美に満たされているのを感じる。
子孫を残せなかった彼だが、空想の抱卵により、自分の体温を次の世代のために使う体験を味わうことはできた。それにしても、巣の中で卵を温める時、鳥がこれほどの歓喜を感じているとは、本当に驚くほかない。この場面のクラレンスは、大きなお腹をさすりながら、まだ見ぬわが子に向かって歌を聞かせている親そのものだ。貴重なその歓喜の様子を私たちに示してくれたキップスに、感謝を捧げたい。
もう一つ忘れ難いエピソードがある。楽しかった一日の終り、親しくくっついてこちらを見上げるクラレンスの目に現れる心を、彼女は次のように翻訳する。「僕にはあなたこそが必要なのです。なんだかんだ言っても、結局、男の子の一番の親友は、お母さんなんですよ」
ここを読んだ時、彼らが真に家族の情愛を分かち合っていると確信した。男の子を育てる感動が、この二行に凝縮されている。そう、その通りだ、と私は一人で大きくうなずいた。男の子とはある一瞬、とてつもない愛の告白をプレゼントしてくれる生きものなのだ。それは母親にとり、一生分の苦労を帳消しにしてもまだ余るほどのご褒美となる。
クラレンスは言葉を持たない。にもかかわらず、彼らが意思を伝えるのに苦労している様子は微塵もない。それどころか、言葉にしないからこそより大切な心を表現し合っている。ならば、人間が編み出した言葉とは一体何なのだろうと、つい考え込んでしまう。他の動物が誰も選ばなかった、言葉を持つという道を突き進む私たちは、どこへ行こうとしているのか。
言葉を選ばなかった彼らは、決して愚かだったわけではない。どんなにか弱く見えても、その内に、人間以上の賢明さを隠している。それを発見し、驚きに打たれ、敬意を表する人生がどれほど豊かなものか、クラレンスとキップスは証明してくれている。
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