- 2023.04.24
- 文春オンライン
イチローの投球、羽生善治の中指、サーブ直前の石川佳純…「見た目が整っている」だけじゃない、肉体の“複雑な美しさ”
「週刊文春」編集部
著者は語る 『からだの美』(小川洋子 著)
「人間に限らず、生きものが持つ“肉体”に、いつも焦点を当ててきた。これまで書いてきた小説を振り返ってみると、自分なりの発見があったんです。人であれ動物であれ、肉体というものにすごく興味があります。それでこのテーマで書いてみたいと思いました」
小説家の小川洋子さんがこのたび上梓したエッセイ集『からだの美』。イチローの投球シーンや、初めて〈生身の人間の声に圧倒された〉というミュージカル俳優・福井晶一氏の『レ・ミゼラブル』、羽生善治九段の中指から、ゴリラの背中、カタツムリの殻まで。様々な生きものの身体のパーツを取り上げ、それらに宿る美しさについて精緻な文章で綴っている。
「私が小説家として最終的にたどり着きたいものは人間の“心”です。どうすればそこに至れるのか、その道順を考えたとき、まずは“からだ”を観察するところから始めました。対象をよく見て、形、機能、動きを、あえてこちらの感情は抜いてひたすら正確に描写する。そんなふうにして書いてきました」
本書には、エッセイ1編につき、テーマに添った写真が1枚、挿入されている。例えば、サーブ直前に一点を真剣に見つめる卓球の石川佳純選手、〈切実な哀しみが伝わってくる〉フィギュアスケートの髙橋大輔選手の踊り、北の富士対貴ノ花結びの一番の決定的なシーンなどだ。
「私はスポーツ観戦は好きですが、専門的な技術まではわかりません。プロではないけれど、その姿を観察することはできる。好きだからこそ凝視しているうちに、その美のありようが見えてくるんです」
小川さんが見出す“美”は、単純に見た目が整っているということではない。
「スポーツ選手の肉体が引き締まっていて美しいというのは当たり前。でもそれだけじゃないんです。バレリーナの爪先やハードル選手の足の裏には知られざる痛みや狂気じみたところがありますし、ボート競技では見た目の優美さに反する疲労の大きさという矛盾をはらむ。そこに、複雑な美しさを感じるんです」
小川さんの肉体への関心は、動物にも注がれる。中でも印象的なのは、「ハダカデバネズミの皮膚」だ。ネズミでありながら、名前の通り毛が生えておらず、出っ歯。さらに全身のあちこちにシワが寄った姿を克明に観察した小川さんはこう記す。〈まるで胎児かと見紛う、安易に手出しできない崇高ささえたたえたこの生命の塊は、美と名付けるのに相応しい〉と。
「ああ見えてハダカデバネズミって実はすごく長生きで生命力が強いんです。つまり、彼らは私たちが知らない賢さを持っている。あのタルタルした体は、その賢さの象徴であって、それは美と無関係ではありません。自然界の生きものが持つ美しさというものは、人間が小手先でこしらえた美ではない、もっと根本的なもの。生命力から生み出される、人間が絶対に真似できない美だと思っています」
本書に収録されているエッセイは全部で16編。月刊「文藝春秋」で当初は12回の連載予定だったが、延長した。
「最初の5編ほどは、連載を書き始める前から、すでに頭の中にありました。連載が始まってからもネタに困ったことはありません。締切が近づいてくると、ちゃんと『次はこれを書こう』と自然とテーマが見つかりました。それくらい、世の中は美に溢れています。ほかの人には何の変哲もないものでも、観察と描写によって、いくらでも美は見出せるものですから」
おがわようこ/1962年岡山県生まれ。88年「揚羽蝶が壊れる時」で第7回海燕新人文学賞、91年「妊娠カレンダー」で第104回芥川賞を受賞。2004年『博士の愛した数式』で第55回読売文学賞、第1回本屋大賞受賞。21年には紫綬褒章を受章。その他著書、受賞多数。
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