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ろう者の世界を「通訳」してくれている爽やかな距離感と愛に溢れたミステリー

ろう者の世界を「通訳」してくれている爽やかな距離感と愛に溢れたミステリー

文:三宮 麻由子 (エッセイスト)

『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』 (丸山正樹 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 しかし、容疑者に不利なことが生じたとき、自然に不利な立場にある側が抱える問題を思いやる。敵に対する味方という意味とは違うが、相手を理解し、相手の立場に立って発言しようとする。そうでなければ、黙秘権が理解できていないという容疑者の状況は見抜けなかっただろう。

 誰かの言葉を仲介して伝えようとするとき、人は好むと好まざるにかかわらず、発言者に寄り添うことになる。敵か味方かという問い方に答えるなら、味方になるわけだ。正確な通訳をするためにはこの「寄り添い」の感覚が不可欠だ。

 ただしそれは発言者に近づくことであって、必ずしも同意することではない。このような距離感は、二者の間に立って両者の発言を伝えるという役割において大切な資質となる。

 筆者はエッセイ執筆以前から外国通信社に勤務し、経済ニュースの翻訳を担当している。経済指標ひとつ取っても、アナリストの分析表現には経済だけでなく政治や文化面での背景がある程度体感的につかめていなければ理解できないものがある。要人発言などはそういう面がさらに強い。聖書やコーランになぞらえた表現のほか、ギリシャ神話、インドの故事など、政治経済の仕組みに関する知識だけでは翻訳できない言葉が無数に出てくる。

 そのとき、「寄り添い」の感覚が必要になる。もし自分がこの大統領だったら、このアナリストだったら、この政治家だったら、この被害者だったら、この兵士だったら……。魔法の呪文をかけるように発言者の心に飛び込んでみる。すると、ぴたりと嵌る日本語が降りてきたりするのである。たとえ発言者と反対の意見をもっていても、正確に訳すには一度はそこまで入り込む必要がある。翻訳がうまくいくときは、原文が正確に「理解できた」ときより、この「寄り添い」の感覚がうまく使えたときである。

 黙秘権の一件で、尚人は容疑者に適切に寄り添い、通訳者の資質を開花させたのである。

 著者は単行本の後書きで、障害の有無にかかわらず、大きな声を上げられない人の声を伝えたいと書いている。主人公が当事者でなくコーダであることは、その意図を象徴している。そこに作者の真摯さを感じる。

 最後に、この作品の読後感の清清しさに触れておこう。悲しい事件、痛ましい結果がミステリーらしく散りばめられており、読者は時折、事件を先取りして悲惨な結末を予感する。けれども、曲折の末尚人が行き着いた結論は、ほっと胸をなでおろさせてくれる。もちろん、予想外の展開もばっちり用意されているのでご期待あれ。

 障害をテーマにしながらミステリーの王道をはずさない姿勢は、奥様を介護しておられる著者が「当事者に近い健常者」、つまり尚人の立場にあるから貫けた面があるのではないかと思う。まるで本全体が聴覚障害の世界を通訳してくれているような爽やかな距離感をもち、優しい愛に満ちた作品を、ゆっくりとお楽しみいただけたら嬉しい。

文春文庫
デフ・ヴォイス
法廷の手話通訳士
丸山正樹

定価:770円(税込)発売日:2015年08月04日

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