本書のクライマックスは、島原の乱だ。でも、これは物語を締めくくるための舞台であり、もっとも重要なのは、そこに至るまでの、賀山健之丞と松平信綱の生き方である(以下、健之丞の抱える秘密に触れるので、未読の人は注意していただきたい)。家光を支えて生きていきたいと願う信綱と、その信綱を支えて生きていきたいと願う健之丞。身分こそ違うが、ふたりの精神は相似形を描いている。まさに魂の双子である。何事もなければ、ふたりは手を携え、同じ方向を見て人生を歩めるはずであった。
だが、健之丞の抱える秘密が、それを許さない。母親が切支丹であり、彼も幼い頃に洗礼を受けていたのだ。さらに口之津で見聞きした、切支丹に対する過酷な扱い。処刑場での切支丹の清廉な態度。信綱を貶めるために流された、健之丞が切支丹だという噂。それらが彼を追い詰め、ついには島原の乱へと身を投じるのだ。しかし本書のラストを読むと明白だが、健之丞が、真に信仰したのは切支丹の教えではない。松平信綱という一個の人間であったのだ。
一方、信綱が信じていたものは何か。ずばり、徳川家康である。あらためていうまでもないが、豊臣家を滅ぼし、徳川幕府を開いた家康は、死後、東照大権現――すなわち神になった。本書の中に「神君家康公を祀る東照宮へ、まさか家光公が鉄砲を撃ちかけられるわけがない」という一文があるように、神である家康は、現世での最高権力者の将軍よりも上位に置かれていたのだ。つまり、江戸時代の日本は、神君家康を信仰する、一神教国家ともいえるのである。そして信綱は“家康教の熱心な信者だ。二十一歳になり、政の面白さを理解した彼は、自分のやりたいことが、家康の意に沿っていると確信するのだから。そう考えると、徳川幕府の切支丹弾圧から島原の乱という流れは、家康教とキリスト教の、宗教戦争ともいえる。なればこそ信綱は切支丹を、あれほどまでに否定できたのではなかろうか。
さらにいえば、健之丞を慕って江戸まで着いてきた十郎は“健之丞教”の信者であり、信綱を貶めるために暗躍したある人物は、また別の人物の信者になっている。そう、本書に登場する主要人物は、自分の人生を支えるために、誰かを信仰しているのだ。そしてそれは宗教というものの、もっともプリミティブな形である。作品の発想の出発点には切支丹と島原の乱があったのだろうが、作者はそれを超越して、宗教とは何か、宗教に縋る人間とは何かに、鋭く迫っている。ここに本書の、深甚な読みどころがあるのだ。
と書くと、身構えて読まなければならない硬質な作品と思う人がいるかもしれない。だが、そんなことはない。火天丸の死んだ悲劇の裏にある陰謀を暴く部分は、ミステリー・タッチであり、読者の興味を強く惹くようになっている。また、柔らかな空気を醸し出す、信綱の妻の静など、脇のキャラクターも魅力的だ。松平信綱の半生を通じて、為政者の在り方を活写しているのも見逃せない。『マルガリータ』は新人のデビュー作らしく、テーマを一直線に追っており、そこが美質になっていた。しかし同時に、いささかの息苦しさも覚えたものだ。それが二作目にして、見事なまでにエンターテイメント性を、アップさせたのである。もとより本書は独立した作品だが、『マルガリータ』と続けて読むことで、作者の瞠目すべき成長を、大いに実感することができるのだ。
先の経歴でも触れたが、本書以降の作者は、時代ミステリーに挑んだり、お家騒動を取り上げたりと、自己の作品世界を広げている。でも、『船を待つ日 古物屋お嬢と江戸湊人買い船』では、島原の乱や切支丹について何度も言及するなど、切支丹へのこだわりを見せてくれている。おそらく切支丹は、作者にとって、骨肉のテーマなのだろう。そのようなテーマを持っている作家は強い。小説を書くための原料が、常に炉にくべられているようなものなのだから。これから益々、広がっていくであろう村木ワールドで、骨肉のテーマが、どう料理されていくのか。なんとも楽しみでならないのである。
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