男社会で生きてきた彼女は、すでに女・男のわくにはまりきれぬ大胆自在な人間となっている。
しかも女にもどっても、原典によれば、「もてなし有様はれ〴〵しくならひたまひにしかば」男として快活なふるまいになれていたので、ふつうの女のように、袖で口もとをかくして上品に笑ったり、うらんだり、しない。「わらゝかにをかしく」というのだから、笑うときは「あっはっは」と笑い、泣くときは泣き、冗談もよくいう――というありさまだ、と書かれている。ここにも女の作者の願望がある。女だって、こんなふうに生きたいのだ、――というひそかなねがいのためいきがきこえるではないか。
〈自分の運命は自分で決める〉
と決意する女主人公。彼女はふたたび男すがたにもどろうとはしないが、男の支配をうけたくないと思う。そのためには産んだ子どもさえすててゆく。
さすがに情愛にひかれて苦しむものの、世間が期待する母性愛――子の愛にひかれて苦境にたえ、母として生きる――人生を、彼女は徹底的に拒否するのである。たぶんこのあたりも、戦前の硬直した道徳観とは、相いれない部分であろう。
男にももどれず、さりとて、女として生きる以上、男にかばわれ支配されなければ自立できなかった時代に、唯一、上流階級出身女性には、〈宮仕え〉という道がある。
女主人公はその世界で、帝寵を得る。
ただし、その物語的解決にも、女作者は、女の夢をみる。
帝が、なみの男のようでなく、誠実で、ただひとりの女として愛し、ほかの女に目もくれず、しかも過去を問わず、あるがままの現在の女を愛すること。
女主人公がふしぎな運命の転変ののち、ついに手に入れた幸福は、帝の妃という、女の最高の地位だったが、それだけではないのである。帝は男としても最高の男、というふうに書かれていて、そういう男にただひとりの女として愛される幸福を、女主人公は味わう。それなら、男社会で味わった満足とつりあう、と女作者はいいたいのであろう。
この本では便宜上、春風や秋月、夏雲、冬日という名を与えたが、その中で、春風とかかわりをもつ夏雲、この男はこの小説では笑われ役の位置にあり、その多情な浮気心、軽率さ、おろかしい執着をさんざん、笑われ、ばかにされるようにかかれていて、女作者の目はつめたい。
しかしこれは、男の特性をことさら誇張して、ゆがんだレンズにうつし出し、読者の笑いをさそおう、というものである。これはこれで愛すべき人情味もないではなく、宇治に囲った春風と、京の冬日のあいだを、気がとがめながら右往左往する男のすがたに、男の煩悩のかなしさも、透けてみえる。
女の生きかた、男の生きかた、さまざま考えさせてくれる小説だ。男にもどった秋月が、やたら、あちこちの女性を愛人にして、世のつねの男のように浮気者になってゆく、こちらの人物造型は春風のように魅力がないのも、女作者の皮肉なあしらいかたが感じられる。
わたしはいままで古典の現代語訳によって、若い世代と古典との橋渡しをする、その仕事をたいせつに思ってきた。いまこのユニークな王朝小説をご紹介できるのはうれしい。少々わたしなりの解釈でつけ加えた部分はあるが、おおむね、原典の忠実な訳である。日本の古典にはなんてふしぎな物語もあるのかと、びっくりしてくだされば、幸いである。
(「あとがき」より)