書評

現代の作家が過去という時間を借りて書いた、女として最高の人生を描く古典文学

文: 里中 満智子 (漫画家)

『とりかえばや物語』 (田辺聖子 著)

『とりかえばや物語』 (田辺聖子 著)

 男の子みたいな女の子。可愛らしい女の子に憧れる男の子。そんなふたりが入れ替わったら、おもしろいお話ができるかもしれない。それも顔かたちのよく似たきょうだいや双子だったらなおさら……というアイデアは『とりかえばや物語』の作者にかぎらず、誰もが考えるのではないだろうか。私自身、昭和五十一年から翌年にかけて、小学生向けの漫画雑誌『なかよし』に、太郎と花子という双子を主人公にした『ミスターレディ』という作品を連載したことがあった。ほんとうの自分の気持ちを隠しながら、親の期待にこたえようとして無理に男らしく、女らしく振る舞おうとするふたりと、そこから生まれるさまざまなトラブルをコメディタッチで描いた作品である。あの頃、何か素敵なタイトルをつけたくて『ミスターレディ』という造語をひねりだしたら、のちに女装したおじさんが活躍するよく似たタイトルの映画がヒットして、ミスターレディはいつのまにか普通名詞のようになってしまった。

 心とからだのアンバランスを扱った漫画といえば私よりもずっと早く、手塚治虫先生が二十代のころに『リボンの騎士』という作品を発表している。ヒロインのサファイアは天使チンクの勘違いで女の子のからだに男と女の両方の心を入れられてしまう。男装の麗人として敵と戦いながらも心は女の子であったり、考えようによってはエロチックで危険な匂いもする、宝塚的な魅力のある作品だった。

 もともと男らしさ、女らしさは後づけの学習によって身につくもので、小さいときは『とりかえばや物語』の主人公のように、男女の違いなどあまり意識していない。男女の性差もまた、白か黒かで明快に線引きできるほど単純なものではない。百パーセント男性、百パーセント女性というのは少数派で、ほとんどの人はそのあいだのグレーゾーンに存在している。一神教的な西欧の宗教観のなかでは男か女か、善か悪かという二者択一の選択肢しかないのだろうが、日本の文化ははるか昔から性差の曖昧さをありのままに受け入れてきた。

 海外に行って「なぜ日本の漫画はホモセクシュアルやボーイズラブを扱った作品が多いのか」といけないことのように質問されると、私はこう答えることにしている。外見はともかく、心は本人たちの自由なのだ、と。それを日本人は自然に認識しているから、文学も漫画も枠にとらわれない自由な発展をしてきたのである。

 古事記のなかにはまだ少年のヤマトタケルが女装して敵の宴席に忍び込み、熊襲建の兄弟を倒すという説話もあるではないか。王朝時代に『とりかえばや物語』のような発想をする人がいてもちっとも不思議ではない。

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とりかえばや物語
田辺聖子・著

定価:本体600円+税 発売日:2015年10月09日

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