×月×日
久しぶりに蕎麦屋でカツ丼を食う。
若い頃、芝居の公演でよく地方を回ったが、どこへ行っても外食はきまってカツ丼だった。その地の名物が牛肉であれ魚介であれ、迷わずカツ丼、漬けもの付き。どこのも同じように実に実に旨かった。もう丼物は重すぎて長い間敬遠していたのだが、戌井昭人の小説『俳優・亀岡拓次』(FOIL)に出てくる旅先での飲食の情景に刺戟され、なつかしくなってトライしてみた。
カツ丼はやっぱり旨かった。後半、腹が膨れどうにも苦しくなって飯は残した。それでもとろける味と噛み心地に満足。いける、まだいけるぜ。
「俳優・亀岡拓次」が、ロケ先の赤提灯で一人ビールを飲んでいる場面から小説は始まる。肴はコロッケと御新香。ん、これは今もおれの大好物。彼がコロッケにかけたのはトンカツソースかウースターか。おれはウースターと醤油をどちらも小量、ちょろっとたらすけど。
というわけで、冒頭から亀岡さんの世界にすなおに誘導されてしまった。亀岡さんはカウンターの中の女性にさり気なく酒をすすめる。そして彼女の「微笑みを自分に好意がある証しなのだと、あえて勘違いすることにした。/独り身の寂しさには、勘違いでも、潤いが必要だった」。
亀岡さんは三七歳、身長一七二センチ、筋肉質、色黒、天然パーマの頭部が少し薄い。眠たそうな目はほのぼのととぼけた印象だが、暴力シーンでは逆にその目が恐ろしく映る。役どころは、浮浪者、下着泥棒、強盗、農夫等々のバイプレイヤーで「ああ、どこかで見たことがある」という程度の認知度。いつも首を縮めているのはどこにいても「自分の居場所がここじゃないと感じている」から。恋人もいない、貯金もなしの地味な生活。大きな役を射止めるという野望もない。「情けない日常を維持することが、演技に深みをつける最善の方法」と思っている。二日酔いで演技中に何度もゲロを吐き、「ミラクルだよ!」と監督絶賛、この迫真のゲロ連発技は大評判になる。
待ち時間が長くても全く苦にしない。ぷらぷら街を散歩してのんびり過ごす。銭湯をみつけてふらりと入る。湯が熱すぎて浴槽に浸かることができず、これは「もの凄い」敗北感。腹が減ってきて蕎麦屋にふらり。もりそばは「もの凄く」腰があって顎が疲れたけれどそんなことはどうでもいい。仕事に戻りスタンバイ。ところが共演の女優さんが来ない。イライラあたふたするスタッフをよそに亀岡さんは現場のソファに坐って居眠り。やがて相手が現れ、「こんにちは」。「よろしくね」と屈託なく応え、そのままの調子で、「今日もキレイだなあ」と演技を開始する。フィリピン・クラブに通いつめるしょぼくれたスケベ男の役なのである。