収められている十一の物語を読みながら、何度も「あぁ」、と呟(つぶや)いた。切実で、だけど楽しくて、どう言葉に表せばいいのか悩ましく、読み終えたときにもまた「あぁ」とため息が漏れてしまった。
本書に描かれているのは想像に難くない、いかにもありそうな、あるいは実際に見たことや、その場に居たこともあるような気さえする、とても身近な光景ばかりだ。
たとえば表題作は少年野球の練習風景が舞台で、それを見守る母親たち、という構図もこれまで何度も休日のスポーツ公園で目にした覚えがあるし、続く「銀座か、あるいは新宿か」の、学生時代の友人との飲み会というシチュエーションも特に珍しいものではない。「パパイヤと五家宝」の主人公のように、ちょっとした余裕のある日にいつもと違う高級食料品店に足を運んだことは私にもあるし、「あの角を過ぎたところに」の恋人たちと同様に、昔馴染みの店の前を、久し振りにタクシーに乗って通りかかったら違う店に変わっていた、という経験もある。
それはきっと、私だけではないはずで、そうした意味において本書は多くの読者がすんなり物語の世界に入ってゆける、間口の広い作品集に仕上がっている。
でも、だけど。
身近で、親しみやすく、ついつい「あるあるそんなこと!」と無邪気に共感を抱きかけたところで、森絵都は読者にそのもう一足先にある情景を見せるのだ。
表題作で描かれる少年野球の練習は、コーチの気合いが空回り気味で、見学している母親たちは集中できずにいる息子たちに呆れつつも勝手なおしゃべりに興じている。
コーチはまだ初心者レベルの少年たちに、まずはフライの追い方を教えようと見本を示すが、少年らはその姿を笑い、道化的にふるまうことを競いはじめる。見つめる母親たちは〈「結局さ、さんざんユニホームだのグローブだのってお金をかけたあげくに、高校生くらいになったらお母さん、僕はお笑い芸人になりたいんだとか、突拍子もないことを言い出したりするんだろうね」〉〈「だよね。親の気も知らないで、俺は巨人よりも吉本の星になりたいんだ、とかさ」〉〈「ボールよりも夢を追いかけたい、なんてね。マジ許せない」〉〈「勘当もんだよ、勘当」〉などと語りあう。