書評

没後十年、吉村昭氏が書き遺した日本近代医療の父の高潔なる生涯

文: 最相 葉月 (ノンフィクションライター)

『夜明けの雷鳴 医師 高松凌雲』 (吉村昭 著)

 私見だが、本作において、吉村が史実を尊重するあまりほとんど言及しなかったと思われるエピソードがある。一つは性病である。幕府軍、新政府軍にかかわらず兵が遊女屋に押しかけたため、梅毒や淋病などの性病は戦闘につきものだった。本作でも大きな花街のある宮古に艦隊が寄港すると遊女屋に兵が群がったと書かれている。箱館においても、幕府の奥詰医師であった栗本鋤雲が娼妓の梅毒治療と貧民の施療のために病院を建設したとある。軍医の凌雲であれば当然、兵や遊女の治療にあたったはず。物語を膨らませたいところだろうが、吉村はさらりと流している。

 もう一つ、吉村は榎本艦隊について興味深いエピソードを発見している。艦隊に参加したフランス軍人が日本女性を連れていたことだ(『史実を追う旅』)。宮古湾海戦を調査した宮古出身の歴史家の史料に記載されていた話で、『幕府軍艦「回天」始末』を執筆する時によほど気になったらしく、ウラを取るための調査を本格的に進めている。男ばかりのむさくるしい空間に彩りを添えるには使いたいエピソードだろう。「箱館戦争仏人調書」などフランス軍人の記録を確認するために、外務省外交資料館や東京大学史料編纂所、国立公文書館に出向いた。新政府軍側の史料を求めて弘前に行き、榎本軍に潜入した密偵たちが残した記録にも目を通している。それでも女性についての記載は見つからず、結果的に『幕府軍艦「回天」始末』には書かれなかった。それから十年、やはり裏付けは得られなかったのだろう。本作においても書かれることはなかった。

 吉村のあまりに禁欲的な創作姿勢には圧倒されるが、これをたんに自制心という言葉で片付けてはならないだろう。小説であっても「歴史」と銘打つ限りは史実を歪めてはいけない。人間の真実を書き続けてきた作家の、読者に対する責任ではなかったか。

 

 吉村が世を去って十年になる。この間、東日本大震災、熊本地震など未曾有の災害が続いた。永らく絶版だった『三陸海岸大津波』が再版されて新たな読者を得たのは、時を経ても変わらない人間精神の有り様を伝えてくれるからだろう。戦後七十年を過ぎて戦争を直接知る人が激減する中、実戦経験者の肉声を集めた吉村の仕事はますます貴重な歴史的資料となっている。

 世界に目を向ければ、中東、アフリカ、ロシアなど各国で終わりの見えない内戦に苦しむ人々がいる。激戦地では赤十字思想は踏みにじられ、病院までが攻撃のターゲットとなり、医療関係者が殺害されている。徳川昭武一行が訪れたパリではISISによる同時多発テロが起こり、多くの人が犠牲となった。集団的自衛権の限定行使を認めた安全保障政策の転換で、日本においてもテロ対策は喫緊の課題だ。吉村ならこの時代に何を見ただろうか。どんな作品を世に問うただろうか。願っても詮ないこととはいえ、吉村昭の不在が残念でならない。

 二〇一六年五月

夜明けの雷鳴 医師 高松凌雲
吉村昭・著

定価:本体710円+税 発売日:2016年07月08日

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