2016.02.14 書評

多くの人間の「犠牲」と自然の計り知れない力。吉村昭が紙碑として伝えたかったこと

文: 高山 文彦 (作家)

『闇を裂く道』 (吉村昭 著)

『闇を裂く道』 (吉村昭 著)

 この小説には数多くの人物が登場するが、主人公といえる人物はいない。吉村さんの記録小説によくみられるように、群像劇といえばよいだろうか。それとも『戦艦武蔵』の主人公が戦艦武蔵という建造物であったと同様に、ここでも丹那トンネルという構造物といえるだろうか。

 そう考えてみたけれど、どれもしっくりこない。

 描かれるのは、伊豆半島の付け根の山塊を掘り抜く丹那トンネル貫通までの十六年におよぶ自然と人間の格闘、地元農村共同体と建設者たちの軋轢、そして多くの人間がいかに犠牲となって完成に至ったか、という物語である。

 着工は第一次大戦末期、それから関東大震災、昭和恐慌、東北の飢饉、北伊豆地震、柳条湖事件、満洲国建国、国際連盟脱退といった天災や動乱の時代を経て、昭和九年の完成までを描く。

 私は読み進めながら、同時代を生きた詩人金子光晴の言葉が、ある段階から耳について離れなくなり、とうとう最後まで離れなかった。

「人間の理想ほど、無慈悲で、僭上なものはない。これほどやすやすと、犠牲をもとめるものはないし、平気で人間を見ごろしにできるものもない。いかなる理想にも加担しないことで、辛うじて、人は悲惨から身をまもることができるかもしれない」(「日本人について」)

 小説の主人公は、富国強兵の「理想」に燃え、そのために数多くの人間を「犠牲」として呑み込んでいった日本の近代化という化け物であるのかもしれない。吉村さんの視点の置きかたも、そこにあるように感じられる。

 小説の第一章で描かれる丹那盆地の美しい自然とたおやかな農民たちの姿は、やがて巻き起こる悲劇を予感させる。よそ者を拒まない人間の情にあふれる風土。トンネル工事がはじまるまえに、このあたりを見ておこうと訪れた新聞記者に、どうぞ、どうぞ、と一夜の宿をすすめる旧家のあるじは、「富士山や箱根の山に積る雪のとけ水が、いたる所に湧き出ています。水質がよく、しかも豊かです。水田など水が多くて困るほどです」と教える。

 乳牛があちこちに放牧され、水田やワサビ田がひろがる。村人は水道ではなく湧き水を直接家に引いて飲料水に使っている。白梅や紅梅が美しい。

 丹那トンネルの完成によって、熱海線が開通する。そうなれば東海道線が一本につながる。自分たちの村にも駅ができる。土地のだれもが期待に胸をふくらませている。

 吉村さんは、第一章の最後で記者にこのように語らせる。

「かれは、海の輝きに眼をむけながら、熱海線の開通が、東海道線を名実ともに日本の大動脈とさせるのだ、と思った」

 希望に満ちた序曲は、しかしやがて無残に解体され、黙示録のような世界がいくつもくりひろげられるのである。

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闇を裂く道
吉村昭・著

定価:本体860円+税 発売日:2016年02月10日

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