今日が昨日の続きだと信じて疑わなかったのに、突然なにもかも変わってしまうことがある。不慮の事故、病気など、個人的な要因であることもあるし、災害や戦争など、大きな力によって多数の人間が巻き込まれることもある。ということを、頭では考えていても、具体的にそれを恐れる、ということは、ほとんどしてこなかった。二〇一一年の三月一〇日までは。
二〇一一年三月一一日に起きた東日本大震災は、天災の恐ろしさをなまなましく体感することになった。数多の不条理を目前にして、直接被害にあった人ばかりでなく、日本中の老若男女を巻き込んで、生きるとはなにか、死ぬとはどういうことなのか、人生においてなすべきことはなにか、ということを考えずにはいられなくなった。
『漁師の愛人』に収載された短編は、いずれも震災後に書かれたものである。震災に直接関係ないものもあるが、そこにある生き方を模索する心は、震災以後のものだ、と思う。社会とのつながりの中で模索する市井の人を描きつづけてきた作者が、大きな時代の節目を超えたその心に、新たな問いを投げかけている。
三〇代、四〇代の独身の女性の、いわば人生の折り返し地点での惑いを描いた中編に、未来を遠望する少年が周囲に向ける鋭い視線が光る短編がからむ。「私」という一人称で描かれる前者は、主観的でじっくりと思考するが、「君」という二人称で描かれる後者は客観的で、時にコミカルである。
注目すべき点として、いずれの物語にも味わい深い老人が登場することを挙げたい。学校の片隅でほうきを揺らす六四歳の用務員、雑居ビルの一室で一心に鉄アイロンを操る老人、六三歳の雨漏り修理工、レトロな喫茶店の調理場の禿頭の老人、喜寿の祝賀会に集まった酒豪の老人たち。名前も与えられない、カメオ出演のような人もいるが、何かを超越したようなその存在感が、主人公の張り詰めた心にふっと軽やかな風を与えてくれる。なるようにしかならないよ、と言外で語っているような気がする。
なぜそんな気分になれるのか、つくづく考えてみた。老人たちには焦燥感がない、ということに思い至る。焦らず、騒がず、ささいなことも、大状況も、ひょうひょうと受け入れる。彼らが直接、煩悶する主人公になにか気の利いた一言を言うわけではないのに、深い癒しを与えてくれるのだ。それが、読者が無意識に求めていたものと通じ合うのではないか、と思う。
東日本大震災から五年が経過した春、熊本を震源とする大きな地震が起きた。一ヶ月以上が経過した今も余震が続き、避難生活を続けざるを得ない人が多数いる。忘れかけていた五年前をまざまざと思い出しつつ、ふたたび震災について考えさせられている。