物事を“好き”“嫌い”の2つだけで判断することはつまらない。
特に大した経験も知識もない頃に、自分の判断や根拠のない自信に頼ることは愚かなことである。
“好き”“嫌い”の手前には、“何となく興味がある”“何だか興味がない”というあやふやな感情があり、その時点で少しの努力と発想の転換をすれば、楽に自分をコントロールすることが出来る。
“こんなの一体誰が見るんだろう?”と、疑問が湧き上がる映画が存在する。世間的に『B級映画』と、呼ばれているものだ。Aをキスとし、Bはペッティングという肉欲のプロセスではない。これはあくまでAを頂点とする格差社会に於ける評価基準である。
じゃ、一体誰が見て『B級映画』と、決めつけたのだろうか?
結局のところヒットしなかったもの、要するにカップルが集まらなかった映画のことを単に“B級”と、呼んでいるだけなのである。
かといって、カップルがポッチャン式便所裏に生息しているカマドウマのようにウジャウジャ集まったからといって、その映画が“A級”だとは限らない。
つき合って間もないカップル、特に男の方は、映画自体よりも映画館を出た後、いかにして彼女をスムーズにセックスに導けるか? そのことばかりに全神経を集中しているので、映画の感想を聞かれても上の空、「サイコー!」とか、ただ「ウォーッ!!」と、叫ぶしかないのである。
それはボンノウ丸出しな修学旅行生が、本来ボンノウを押えるべき奈良・東大寺でワァーワァー言いながら大仏を見上げてる姿と酷似している。
この世にAもBもCもない。他人の評価を鵜呑みせず、己れも捨ててただ映画に没頭する。映画館とは、自分なくしの道場なのだ。
童貞の時、リバイバル上映された『ローマの休日』でラスト、“もう、この平民の新聞記者には会えない……”と、ズクズク泣いた。『ゾンビ』を見た時も、“オレの本当に欲しいものは果してこのスーパーマーケットにあるんだろうか?”と、自問自答した。
『タイタニック』のラストでは“その板切れに乗るの、たまには替れよ……”と、淋しくなった。そして、“オレがもし死んでも、オレの細胞が善と悪に分れ巨大化し、サンダとガイラになってやる!”と、誓ったものだ。
そうなんだ。オレはいつだって映画を見る時は、主人公に感情移入どころじゃなく、すっかり自分をなくして成り切っているわけだ。当然、映画にジャンルは問わないし、そんなオレに“好き”“嫌い”なんて、ちっぽけな選択があるはずがない。
誰が何とおっしゃろうと、全て「そこがいいんじゃない!」と、肯定の呪文を己れにかけることにより本来の映画が楽しめるということなのであーる。
(「まえがき」より)