じっさい、シートンがルーズベルトとあからさまに対立するのは少し後のことでした。それは、イギリスで生まれたボーイスカウト運動がアメリカに導入された一九一〇年以降の、運動の理念をめぐる厳しい対立でした。ボーイスカウトの初代団長に選ばれたシートンが、子どもは自然の中で自由に遊んで自分を育てるのがいい、と教育の理念をのべたのに対して、名誉副団長に就任したルーズベルトは、子どもを軍人補充のための予備人員として自然の中で鍛えるべき、と考え、軍服ににせた制服を定めたからです。
一九一四年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、国家主義的な機運が高まり、子どもの自由意志を尊重すべき(制服は廃止すべき)と主張するシートンは、アメリカ合衆国の国籍をもたない(シートンはカナダ人)、という国籍条項により、ボーイスカウトの団長の職を解かれたのでした。事務局を動かしたのはルーズベルトの指示だった、とされています。
こうした経緯があって、ジュリアはボーイスカウト(ルーズベルト)と夫との対立を解消するよう努力しました。そして、シートンはボーイスカウトの最初の野外活動のマニュアル(教科書)を作った功績などを認められてボーイスカウトからシルバー・バッファロー賞を授与されます(一九二六年)。自叙伝の後半部分の原稿の削除は、こうして回復された関係をジュリアがしっかり守りたかったため、といえそうです。
ずっと後になってジュリアは、夫シートンとのくらしをふりかえり、『燃えさかる火のそばで』(一九六七年)という本を刊行します。その中で、「シートンとルーズベルトは終生友情で結ばれていた」と書いています。この手短な言葉は、自叙伝の後半の削除と言う、とてつもなく大きな対価を支払ってのことであり、多くの対立抗争があってもなお、というよくは分からない深い意味、と解するべきでしょう。私たちはシートンがもっとも書きたかったことを読むことができません。
もっとも、私はジュリアが妥協した、とは少しも思っていません。この本の執筆時の一九六五年十二月、ジュリアはシートンが残した全ての動物物語などの著作権、絵、動物の標本、それに動物学の書籍などをボーイスカウトに寄付し、ボーイスカウトはシートン記念図書館をニューメキシコ州シマロンの広大な農場につくって、それらの資料を保管・展示しています。
以上から、作品中の記者の言葉、「『自叙伝』に“書かれなかった”エピソードを一つ二つお話しいただけないでしょうか?」というシートンへの問いは、強烈なインパクトをもつ言葉、といえます。そしてまた以上から、自叙伝の失われた後半というミステリーとの関係は、すでに本作品に書き込まれている、と考えることもできます。というのは、シートンが本当に望んだのは、自分の作品が読みつがれていくことだった、と思うからです。ジュリアがすべてのシートンの著作権をボーイスカウトに寄付し、子孫に分散することを防いだことが、何よりの証拠です。
この法的処置によって、私もシートン作品を日本で訳出することができたのですし、また、シートンの評伝(『子どもに愛されたナチュラリスト シートン』)に多数のシートンの絵を掲載できました(ボーイスカウト オブ アメリカは著作権の使用許可に際して使用料をとっていません)。そしてそのことがひいては、本作品、『シートン探偵記』の誕生につながっています。
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