- 2015.04.21
- 書評
世界にはまだまだ凄いミステリ作家がいる
文:千街 晶之 (ミステリ評論家)
『死のドレスを花婿に』 (ピエール・ルメートル 著/吉田恒雄 訳)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
さて、こうして一気に日本での知名度を高めたルメートルだが、邦訳された作品は『その女アレックス』が最初ではない。著者の経歴については、本書および『その女アレックス』の訳者あとがきを参照していただきたいけれども、二○○九年にフランスの出版社カルマン・レヴィ書店から上梓された著者の第二作Robe de mariéが、同年八月に柏書房から『死のドレスを花婿に』という邦題で刊行されていたのだ。それが本書である。そもそも、『その女アレックス』が文藝春秋から邦訳されたのは、担当編集者が『死のドレスを花婿に』を読んで衝撃を受け、読んだ翌日からルメートルの新作を探しはじめたのがきっかけだという。単行本で邦訳が出た時点では本書はさほど話題にならなかったものの、『その女アレックス』の大ヒットでこちらも版を重ねることになり、今回、いよいよ待望の文庫化という運びになったわけである。なお、本書はノン・シリーズ長篇であり、『その女アレックス』のカミーユ・ヴェルーヴェン警部は登場しない。
物語は全四部から成っており、第一部はソフィー・デュゲという女性の行動を追うかたちで進行する。順風満帆の人生を送っていた筈の彼女は、いつしか記憶障害に悩まされるようになっていた。日常の細々(こまごま)とした記憶が失われることが度重なり、苦しみに満ちた日々を送っていた彼女が、ようやくありついたのはベビーシッターの仕事。次期閣僚候補と目される有力者のアパルトマンに通い、六歳になる息子の面倒を見ることになったのだ。ところがある日、疲れ果てて眠りに落ちた彼女が目を覚ますと、そこには他殺死体があった。誰もアパルトマンに出入りした形跡がない以上、犯人はソフィーしかあり得ない。しかも凶器は彼女自身の靴紐。無意識のうちに、自分は人を殺してしまったのだろうか……。言い逃れ不能の窮地に陥ったソフィーの逃亡生活がその日から始まる。夫と母は既に死んでおり、唯一の肉親の父にもそう簡単に連絡を取るわけにもいかない。ソフィーは身元を偽りながら警察から逃げ続ける。そして、彼女の行く先々に、次々と無残な死体が転がるのだった。
恵まれた境遇だった女性がすべてを失い、連続殺人犯として追われる身に……まさに天国から地獄へ真っ逆さまの極端な転落である。しかも、彼女の曖昧な記憶には「ハンドルに覆いかぶさった血まみれの夫の身体」「階段の踊り場から義母の背中を押し飛ばした」など、何やら不穏な過去の断片的イメージが頻出する。果たして、ソフィーは夢うつつのうちに凶行を重ねる殺人鬼なのか。しかし、自分が殺人を犯したことすら、そう都合良く忘れてしまうものだろうか……と、読者は彼女の精神が狂気と正気のどちらに傾いているのかを判断しかねながら読み進めることになるだろうが、ここまでならサスペンス小説を読み慣れた読者にとって、さほど目新しい導入部とは言えないかも知れない。問題はそこから先である。『その女アレックス』の展開を途中からは絶対に触れてはいけないのと同様、本書の場合も、第二部以降の展開についてここで紹介するわけにはいかない。何しろ、「そんなのあり?」と呆然とするほどの衝撃的な事実が待ち受けているのだから(しかも、第一部のそこかしこで少なからぬ読者が覚えたであろう「この描写はどういう意味だろう?」という微かな違和感に、ちゃんと説明がつくようになっている)。『その女アレックス』とは異なり、過激な残虐描写があるわけではないものの、事件の背後で蠢(うごめ)く悪意のどす黒さにおいては些かも見劣りしない。どんな読者にも「こいつだけは許せない」と思わせるような桁外れの悪を描くのがルメートルは抜群に上手いのである。
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