ひとのコミュニケーションに興味がある。ひとのわかりあえなさに、と言ったほうがいいかもしれない。
同じ日本語を使い、同じ共同体に所属し、似たような環境で育ったとしても――早い話が親子、兄弟、夫婦、親友、恋人という間柄でさえ、100パーセント理解しあえることは、なかなかない。誤解や曲解の連鎖から起きる人間関係の摩擦に疲れ果て、
――もう、誰も来ない山奥にたったひとりで住みたい。無人島にひとりで暮らしたい。
などと感じたことが、誰しも一度くらいはあるのではないか。
他人は自分を理解できないと考えているのに、自分は他人を理解できると信じている刑事の悲劇を、過去に『怪物』という作品で描いた。しかし、どんなに頑張ってもひとは他人を理解できない生き物である、という地点から一歩も踏み出せないとすれば、それも進歩がなく寂しいことだ。
わたしたちはなぜ、かくも理解しあえないのか。何が問題なのだろう。ひょっとすると、コミュニケーションの道具として使っている、〈言葉〉の使い勝手が悪いのだろうか。
言語という一種の記号によって、私たちは自分の考えをほかの人たちに伝え、残すことができる。およそ5万年前から人類の文化は急速な発展を遂げたそうだが、それは言語の発達とも関わりがあるはずだ。
もし、この世から言葉が失われたら。みんながそれぞれ、でたらめな言語で話し始めて会話が成立しなくなったら、世界はどうなるのだろう――。
新刊『バベル』のアイデアが生まれたきっかけのひとつは、ご存じ旧約聖書に描かれたバベルの塔のエピソードだ。天にも届く巨大な塔の建設が始まるまで、すべての人々はひとつの言語を話していた。ところが、創造神の罰を受けて言語を分けられてしまう。会話が成り立たなくなった工人たちは、塔の建設を放棄して世界中に散らばっていき、それぞれの民族や国家に分かれていった。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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