そして、本書では、若き日の火村が描かれるだけでなく、アリスの過去にも触れられている。「菩提樹荘の殺人」では、アリスが十七歳で初めて書いた小説が、「菩提樹荘殺人事件」と題されていたと語られる。これは、著者の有栖川が十六歳で「ぼだい樹荘殺人事件」を書き、雑誌「幻影城」に応募したことに由来する。だが、有栖川自身の最初の小説は同作ではなく、十一歳の時の「虹色の殺人」だった。彼のジュブナイル・ミステリ『虹果て村の秘密』(二〇〇三年)で、推理作家志望の十二歳・上月秀介(こうづきしゅうすけ)が「虹色の殺人」を書きかけていたのも、自身の経験に基づく。
有栖川は、小説やエッセイでデビュー前の習作にしばしば触れてきた。エッセイ集『本格ミステリの王国』(二〇〇九年)では、それら習作の数々がふり返られただけでなく、同志社大学推理小説研究会の機関誌に寄稿した「蒼ざめた星」、スポーツ紙の犯人当て企画用に書いた「殺刃の家」が収録されている。
有栖川は、一九八九年に『月光ゲーム Yの悲劇'88』で単行本デビューした。だが、それ以前に同作でも活躍した江神二郎(えがみじろう)を探偵役とする「やけた線路の上の死体」が、鮎川哲也編アンソロジー『無人踏切』に採用され、短編デビューしていた。現時点で『月光ゲーム』から『女王国の城』(二〇〇七年)まで長編は四作が発表されている江神二郎と学生アリス(著者の有栖川有栖、火村シリーズの作家アリスとは別の存在)のシリーズは、長編五作と短編集二冊が計画されている。そのうち「やけた線路の上の死体」を含む第一短編集『江神二郎の洞察』は、『菩提樹荘の殺人』の前年の二〇一二年にまとめられた。
江神二郎と火村英生は、有栖川が生んだ二大名探偵だが、両者には違いがある。英都大学推理小説研究会に所属する江神とアリスは学生であり、事件に遭遇し、様々な感情を引きずりながら成長していく。一方、シリーズ第一作『46番目の密室』(一九九二年)で三十二歳だった火村とアリスは、初登場時から犯罪学者、推理作家という職についた大人だった。そして、ある頃から二人は三十四歳のまま、年をとらなくなった。助教授だった火村は教授にならず、職階制度変更で准教授になっただけ。エンタテインメント作品にはよくあることだが、火村は不老のキャラクターなのだ。