弘前藩が現代のブラック企業に似ているだけに、拝金主義を批判し、国の将来を憂える大作の言動が、痛快に思えるだろう。だが著者は、大作を決して正義のヒーローとはしていない。旗本ながら無役なので、幕府への忠誠心など持ち合わせていない光一郎を通して大作を描くことで、大作の掲げる“義”を相対化しているのである。
幼い頃から弘前藩への恨みを聞いて育ち、微禄の自分を認め剣と学問を学ばせてくれた前藩主の利敬を敬愛する大作は、弘前藩と盛岡藩の地位が逆転することを死の瞬間まで心配していた利敬を想い、寧親の暗殺を決意する。だが第三者として、冷静に大作を見ている光一郎は、主君への忠義に殉じようとする大作は武士としては美しいが、このまま計画を進めれば大作を信頼する部下が命を落とし、暗殺が成功しても失敗しても藩が取り潰される危険があると気付く。何より暗殺計画は、弘前藩と盛岡藩の融和をはかるという大作の信念に反しているのだが、大作自身が、それに気付いていない。
大作は、主君への“忠”、弘前藩の悪を糺すという“義”に凝り固まり、視野狭窄に陥り軌道修正ができなくなっていく。環境保護活動が、自然を破壊する個人や企業など排除しても構わないという環境テロに変わることがあるように、“正義”が“独善”に転じることは珍しくない。著者は、大作が実行したのが義挙なのか、私怨で周囲が見えなくなっていた単なるテロなのかを問い掛けることで、“正義”と“独善”の境界に迫ってくる。このテーマが、光一郎の働きによって、一見すると無関係に思えたエピソードが繋がり、驚愕の真相が明かされるミステリータッチの展開の先に浮かび上がる仕掛けになっているので、より衝撃が大きく、強く印象に残るのではないだろうか。
事件の顛末を知った光一郎は、下々の生き死になど歯牙にもかけないのは、弘前藩だけではなく、すべての為政者に共通していることも知ってしまう。現代の日本では、政治家の命令で市民が命を落とすことはないが、増税を挙げるまでもなく、政策が一つ変わっただけで、生活が激変するのは珍しくない。光一郎の謎解きは、政治は常に非情で、必ずしも国民のために行われていない事実を暴いていることも忘れてはならない。
日本では、国の政策にしても、企業が進めるプロジェクトにしても、一度動き出すと、それを始めた人間のメンツを守ったり、責任を回避したいと考える人間が多かったりするため、止めたり、修正したりするのが難しくなっている。だからこそ、途中で計画を変更できなかった大作が残した「己の信じる方へ進め。しかし、違えたと思うたら、すぐに引き返すのだ。それは恥にはならぬ。恥ずべきは違えたことを知りながら、闇の中を進むことだ」という言葉は、重く受け止める必要がある。
みちのく忠臣蔵
発売日:2016年06月24日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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