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富士をめぐる日本人の情念

富士をめぐる日本人の情念

文:岡野 弘彦 (歌人)

『富士山の文学』 (久保田淳 著)


ジャンル : #趣味・実用

 私は三十年ほどの間、伊豆に住んで週に一、二度は東京へ出てくるという生活をつづけてきた。帰りの新幹線で乗り合せた外人の旅行団体が熱海や三島に近くなると、次第にそわそわとし始めて、富士山の見える側に席を移したり、カメラを構えたりする。案内書で、日本へ行けばまず富士山と知らされているからに違いないが、自分自身の心の中の富士山について、反省させられる光景である。

 この書物は和歌文学を中心とした日本文学の研究に長く努めてこられた久保田氏が、初めてヨーロッパへ一年間の在外研究に出たことがきっかけで、改めて日本における文学と自然、文学と風土といった問題を考える思いが深まり、その結果成ったものだという。

 その内容は、古代の神話から始まり、日本の各時代の記録や文学作品に現れた富士山について、四十二章にわたって要点を摘出し、正確な考証と論評を加えて、富士山を核にした日本人の心性の現れを、時代を追って見ようとしたものである。

 文章は簡潔で、時にはそっけないと思うほど要点を次々に追って、古代から現代に至っている。読むに従って、日本文学における富士山に関するさまざまな事項や、感受する心の変化、表現の推移といったものが、具体的にそしてこまやかに納得せられてくる。

 そしてこの本の何よりの魅力は、集録された過去の日本人の富士山に対する心の記録、表現の変化を追ってゆきながら、自分の心の内なる富士山についての思いを、みずからたどり直さずには居られない気持にさせられることである。言ってみれば富士山は、この列島に住む日本人総体の心の核であり、思いの臍(へそ)の緒につながる山だということを改めて気づかせられ、自分の胸にそのことを問い直してみないではおけないような気持にさせられることである。

 面白いことに、著者は自分の足でこの山の頂上を踏むという体験を持たれなかったようである。私はたった一度だけある。戦争の苛烈になってゆく昭和十八年の夏、大学生として富士山麓の軍事教練に参加し、深夜に宿舎を出発して夜間行軍で頂上に登った。五合目からは隊伍を解いて競走になり、伊勢の山村に育った私は二百人中の二着で頂上に着いて、心ゆくまで御来迎を見ることができた。その上で思ったことは、富士山は登る山ではない、遠近いずれの地であろうとも、時を変え所を変えて、ふり仰ぎふり仰ぎながら、その時々の胸に去来する思いを絡めながら、心に刻み思うべき山であるということであった。

 この本の冒頭の三章にはそれぞれ、神話的な人物に関する古代伝承が記されている。

 第一は聖徳太子で、甲斐の国から献じられた漆黒の神馬にまたがって、雲を踏み霧をしのいで富士山頂に至り、信濃から越(こし)の国を電光のように飛びめぐったという『聖徳太子伝暦』の伝えである。ギリシャ神話のペガサスや、ニーベルンゲンの歌のジークフリートが乗る天馬を思わせる姿である。

 第二は『常陸国風土記』に伝えられるもので、神々のうちの祖神が「み祖(おや)の神」として巡行して来た時、福慈(ふじ)の神は冷たくあしらったが、筑波の神はその夜が神聖な新嘗の夜であるにもかかわらず、祖神をあたたかくもてなした。祖神の呪いによって、福慈の山は常に雪の降っている荒涼とした山となり、筑波山は人が登って歌舞や飲食をたのしむ明るい山となったという。

 第三には『日本霊異記』や『今昔物語集』『扶桑略記』などに伝えられる、修験道の開祖の役(えん)の行者に関するもので、罪あって伊豆に流されるが、術を使って海上を走り、空を飛んで、夜は富士の山で修行をつみ富士明神の神助を得て罪を許され、ついには唐土へ渡ったという。

 こうした神話的な伝承の中に、後世の富士山をめぐる日本人の心意の伝承の諸要素が、およそ含まれているような気がする。富士の神を木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とむすびつけて女性神だと考える道筋も、御祖神(母系の祖神)としての伝えに見えているし、富士の神を浅間(せんげん)様と考えてゆく道筋も、聖徳太子が富士から信濃・越の国を経めぐる経路の上にすでに暗示されているようである。そして東国の東歌に、

 

霞ゐる富士の山辺(やまび)にわが来なば
 いづち向きてか妹(いも)が嘆かむ

天のはら富士の柴やま木(こ)の暗(くれ)の
  時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ

 とあるように、日本人は折々の心をこめて富士の姿を仰ぎながら、それぞれの情念をからめて富士をめぐる学を生み出してきたのであった。

 折しも、富士山頂の測候所の閉鎖が報じられている。富士の煙は絶えて久しいが、その内にはなお熱い火を抱いたままである。この山をめぐる日本人の心は、過去の熱い文学的伝承をかかえて、どう変化してゆくのであろうか。そのことを考えずにはいられない気持にさせられる書物である。

文春新書
富士山の文学
久保田淳

定価:913円(税込)発売日:2004年10月20日

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