書評

うつくしい後姿が見える本

文: 上橋 菜穂子 (作家/川村学園女子大学助教授)

『藤沢周平 未刊行初期短篇』 (藤沢周平 著)

 本の半ば、「木曾の旅人」を読み終えたあたりで涙があふれてきて、あわてて本を伏せた。

 物語に涙したのではない。この短篇に込められている〈祈り〉が見えてしまったような気がして、胸を突かれたのだ。この短篇を書いていた時期、藤沢周平の妻は病に冒され、生まれて間もない娘を残して、死へと滑り落ち始めていた。そういう状況の中で、こういう短篇を書いていたのかと思ったとき、その結末に、彼の祈りが見えてしまった気がしたのだった。

 その瞬間、解説を先に読むべきではなかったな、という思いが頭に浮かんだ。本来私は、こういう風に、作家の事情や心情を忖度しながら作品を読むのは好きではない。作品は、世に出たときに、作家との間にある臍の緒を断ち切っている。少なくとも私は、拙著を読みながら、私がどういう状況に在って、こういう物語を書いたのかなんて、考えて欲しいとは思わない。

 そんな考えがひらめいた後、いや、この本に限っては、解説を先に読むのが正しい読み方なのかもしれない、という思いが、ゆっくりと心に広がってきた。

 この本は、藤沢周平自身が選んだ短篇集ではない。彼の死後、発見された未刊行の短篇――それも、「溟(くら)い海」で本格的に文壇デビューをする八年から九年前に書かれた短篇――を編んだ本なのである。私のような熱狂的な藤沢周平ファンがこの本に出会ってしまったら、どうしても、「彼がいかにして、あのような作品を書くに至ったか」を、本の中に探らずにはいられない。そういう読者のために世に出てくれた本なのだとさえ、言えそうな本なのだ。

 実際、本書を読み進むと、否応なく、彼が「藤沢周平に成って行く」過程が心に迫ってくる。藤沢ファンであれば、それを感じずにはいられない本なのである。

 それにしても、この時期、藤沢周平は、なんと多彩な試みをしていたことか。隠れキリシタン物もあれば、驚くなかれ、古代エジプトを舞台にした短篇さえあるのだ。書いて、書いて、書いて、己の中にある語り部の才が鋭く震えながら発動する、天性に繋がるその一点を探しながら書き続けていたことが、唸る風のように書面から立ち上がってくる。

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藤沢周平 未刊行初期短篇
藤沢周平・著

定価:本体1,714円+税 発売日:2006年11月09日

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