関東取締出役、通称八州廻りが追っかけていたのは、いまでいうならおおむね“やくざ者”だが、『花輪茂十郎の特技』の刊行を機に、江戸時代の“やくざ者”の系譜を考えてみたい。
江戸の初期に幡随院(ばんずいいん)長兵衛(没年一六五七年)なる口入れ(就職の斡旋)を稼業にする町奴の頭株がいた。水野十郎左衛門を頭株とする旗本奴と争って殺されるいわゆる侠客(おとこだて)だが、長兵衛は“やくざ者”の系譜とはことなる。
この系譜はどうやら火消し人足に受け継がれるようだ。ふだんは町内の人たちに飯を食わせてもらっていて、ジャンと鐘が鳴るとそれよと飛びだす。一方、町内の人のためにどぶ浚(さら)いなどもいとわずやる。町内の人たちとは一心同体。頭と配下の火消しは親分子分のような世界をつくってはいるが、親分が黒といえば、白でも黒といわなければならないような“やくざ者”のきびしい掟はない。
いわゆる“やくざ者”は江戸の中期から登場するようだ。江戸中期の講釈師であり雑学者でありゴシップ作家でもある馬場文耕(ぶんこう、一七一八?~五八)という人がいる。美濃郡上金森(みのぐじょうかなもり)家の騒動を講談・実録に仕立てて幕府の忌諱(きい)に触れ、処刑されるが、皮肉なことに後年編纂された幕府の編年体実録『徳川実紀』は文耕の著作を引用せざるをえなかったほど、実録には信がおけた。その文耕の『当世武野(ぶや)俗談』にこんなくだりがある。
「本所(ほんじょ)入江町鐘つき堂の際に道源(どうげん)小僧吉五郎と云ふ者有り。此の者、元は道具屋源七と云ひし者なり。故に道源小僧とは云はれたり。渠(かれ)は俗に云ふ通り者にて本所辺りにて誰しらぬ者もなく」
文耕がいう“俗に云ふ通り者”が“やくざ者”に近い。
小身の武家の隠居、あるいは貸本屋向けの著述をしていた人ともいわれている、ペンネーム東随舎(とうずいしゃ)なる人が著した『古今雑談思出草紙』にもこんなくだりがある。ちなみに内容は享和元年(一八〇一)以前の話を拾ってつづったもの。
「此の舎(やど)の辺りに、諸勝負をこのみて、手広く所々に往来をなす放蕩の者あり[割注]俗に通りものといふなり」
ここにいう“通り者”は“やくざ者”そのものといっていい。