文耕の死の四十年後の、江戸の中期も終わろうとする寛政十年(一七九八)三月にだされた触れにこうある。
「関東在々において、同類を集め、通りものと唱(とな)へ、身持ち不埒(ふらち)のもの共を子分などと号して抱へ置き、あるいは長脇差(ながどす)を帯し、目立ち候衣服を着し、不届きの所業に及び候ものこれ有る由に相聞え候」
この時代にもまだ“通り者”という言葉が使われている。関東取締出役、いわゆる八州廻りがおかれるようになったのは、この七年後の文化二年だが、そのころから“通り者”という言葉は消え、かわって“悪党者(あくとうもの)”もしくは“無宿(むしゅく)長脇差”という言葉が登場する。
“無宿”は戸籍を持たない者のことで、生まれながらの“無宿”もいるが、ふつうは累が及ばないように親兄弟が勘当して帳外(ちょうがい、戸籍から抹消)、つまり無宿にした。だから“無宿”はそもそもが“悪党者”で、上州(じょうしゅう)無宿、野州(やしゅう)無宿、当時無宿(生まれが不詳の無宿)などという言い方をした。“長脇差”というのは文字どおり腰に長脇差をぶち込んでいる者のこと。
“通り者”という言葉にはなんとなく、侠客に近いニュアンスがある。実態は身持ち不埒の者を子分として抱え、目立った着物を着て、長脇差を腰にぶち込み、不届きを働いている。“通り者”には程遠く、“悪党者”もしくは“無宿長脇差”という言葉があたらしく生まれたということのようだ。
以下は八州廻りがおかれるようになって十年後の、勘定奉行の達書(たっしがき)。
「在々所々長脇差を帯び、または帯刀致し、御代官手付手代(つまり八州廻り)の手先、あるいは火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)手先などと申しなし、博奕(ばくち)致し、喧嘩口論を好み、仲直りと称して金銭をゆすり取り、所々百姓家にて衒事(かたりごと)または押借(おしか)り等致し、あるいは人の女房娘等を無体に連れ参り、百姓家へ押しかけて無賃にて数日逗留致し、盗賊を取り押さへ、双方(盗賊と被害に遭った者)より金子(きんす)等をゆすり取り、無賃にて人馬等を継ぎ送らせ」
達書から二十数年後の天保の後期から、弘化、嘉永、安政、さらには幕末にかけて、飯岡助五郎、笹川繁蔵、勢力(せいりき)富五郎、国定忠次、大前田英五郎、田中岩五郎、竹居安五郎、津向(つむき)文吉、大場(だいば)久八、丹波屋伝兵衛、清水次郎長などが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するが、勘定奉行の達書は彼らの行動原理をおおむねいいつくしており、“やくざ者”の原型もほぼそこにある。
ただし、“やくざ者”という言葉はまだ市民権を得ていない。江戸時代にも“やくざ”という言葉が使われないでもなかったが、一般に使われるようになったのは明治に入ってからのようである。
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