真山仁の小説を初めて読んだのは、彼がデビューして少し経ってからだったと思う。目利きの友人と話していたときに、真山仁って知ってる? この人ちょっと面白いよと教えられ、あわてて書店に走り、手にとったのだった。当然のことながら、予断も先入観も一切なかった。
しかし、これがハマってしまった。外資系ファンドの日本買いを描いたその小説は、ピカレスク(悪漢小説)でありながら、実に爽やかで痛快な物語だったのだ。主人公の悪漢がさらなる巨悪、難敵に立ち向かい、最終的には正義の人物のような印象を読者に与える読後感も申し分なかった。何と言うのか、不思議に胸がざわついてくる小説なのだった。経済のことも金融のこともまったく知らない身であるにもかかわらず、自分がその世界の強者であるかのような感覚さえ味わわせてくれたのだ。いわゆる小説内疑似体験というやつである。小説を読む愉しみはこれに尽きるという人もいるくらい、読書における基本の感覚と言っていいかもしれない。それをしっかりと感じさせてくれたのだ。
同じようなことを思った人は多かったのだろう。それから彼はみるみるうちに頭角を現していく。デビュー作『ハゲタカ』はシリーズとなり、テレビドラマの成功もあって大ベストセラーとなる。ほかにもテレビ業界の内実を暴いた『虚像(メディア)の砦』、地熱発電の可能性を描いた『マグマ』、原発のメルトダウンに迫った『ベイジン』、日本の「食と農」の暗部を直撃する『黙示』、初めて政治の世界に真っ向から挑んだ『コラプティオ』、東日本大震災後の被災地を憂える『そして、星の輝く夜がくる』……など次々と力作を発表し、一躍人気作家となっていったのだった。
これらはいずれも現代の日本社会が抱える問題に正面から真摯に、苛烈に挑んでいった野心作であった。それでいながら最上級のエンターテインメントに仕上がっている。しかも社会的に重要な課題を決して深刻に描くのではなく、読者に興味を持たせるように、愉しませるように物語を紡いでいたのである。この力量は凄いと思った。そしてそこにもうひとつ、いずれの作品にもある共通した作者の思い、テーマが隠されているように感じたのだった。
象徴的な例としては『コラプティオ』だ。ラスト近くになって、主人公がある政治家に「あなたの行動には正義がない」と詰め寄っていくと、言われた人物はふてぶてしく笑いながら「政治と正義は両立しない」と傲然と言い放つ場面である。この言葉をわたしは、政治とは権力であり、正義などという金にも力にもならないものが入る余地はないのだという意味に捉えた。
あるいはまた『虚像の砦』でも、巨大メディアが権力と化している現代において、正義とは一体何か、それは一体どこにということが問われていた。『ハゲタカ』シリーズはもっと極端で、力を持つ者だけが世界を支配するのであって、正義など何の役にも立たないとする。もしもかりに正義があるとすれば、それはあくまで個人の正義であり、国家の正義でしかないのだった。ほかの作品――『ベイジン』にしても『そして、星の輝く夜がくる』にしても『当確師』にしても同様で、そこには常に権力を持つ者と正義のありようが問われている。これがつまり真山仁の真情なのだと思う。
プラトンの『国家』の中に「正義とは強者の利益にほかならぬ」という言葉がある。またこれをひねくったような言い回しで、パスカルの『パンセ』には「力を持たぬ正義は無能力であり、正義を持たぬ力は暴力である」との一節がある。真山仁は、この力と正義という――相容れぬ関係のものなのか、はたまたそうではないのか、何とも判然としない両者についての関係性を、執拗に追い続けているような気がしてならないのだった。
彼は、子供の頃から読書が大好きだったという。中学生のときにはすでに漠然と物書きに憧れ、高校二年のときに読んだ山崎豊子の『白い巨塔』がその気持ちを決定的にした。いくつかのインタビュー記事や講演の記録によると、これほどインパクトがあって、読者が疑似体験でき、自分の考えや思いを人に伝えられる方法は小説以外にはないと思ったのだそうだ。同時に作者の凄まじい取材力に驚き、これは絶対に見習わなければならないと肝に銘じたのだとも。『白い巨塔』を読んでいる方ならお気づきだろうが、この作品には権力と正義のバランス関係が生々しく描かれている。迂闊なことは言えないけれども、もしかするとこれが真山仁の出発点であったのかもしれない。
そうした気持ちを、より一層加速させたのが大学三年生のときに出会った、フレデリック・フォーサイスの『第四の核』であった。もちろんそれ以前にもフォーサイスの作品は読んでいたが、『第四の核』には小説を読む愉しさ、面白さ以上のものを感じたのだ。それは一冊の本で社会が変わり、歴史の転換点を作ることが出来るという衝撃だった。詳しい事情は省くが、その頃イギリスは保守党が後退し、次の選挙では労働党が圧勝、政権が移り代わるという気運が高まっていた。ところが、労働党の危うさを描いたフォーサイスのこの一冊でがらりと潮目が変わって保守党が勝利、サッチャー政権がその後十年に渡って続いたのである。当時〈政権交代論~自民党政権打倒のシナリオ〉の題で論文を書いていた真山仁にしてみれば、およそ信じられない出来事であったろう。一冊の小説が世の中の趨勢をひっくり返してしまったのだ。これが小説の持つ秘めたる力なのか、と思っても不思議はない。
もっとも――水を差すようで悪いのだが、イギリスの世論調査というのは当てにならないことで定評があり(一番頼りになるのはブックメーカーの予想だそう)、当時の労働党が圧勝するとの気運、世論が必ずしも正しかったとは限らないようだ。とはいえ、このとき真山仁青年の胸に灯った小説に対する熱き思いや希望、野心はその後も長く長く続くことになる。
本書『売国』は、真山仁が小説家を目指す動機と支えにもなったであろう、これらの作家、作品の“魂”を忠実に受け継いでいる傑作だ。
徹底した取材によるリアルな描写、重層的に構築された先が読めない波乱の展開、明白な善悪など存在しない社会の不条理、立場・思想によって変化する正義――単純には割り切れない世界の実像に迫っていこうとする、小説の基本姿勢がここにはたっぷりと詰まっている。
物語はふたりの視点から描かれていく。ひとりは気鋭の検察官・冨永真一。彼は圧倒的に不利だった殺人事件の裁判を検察側の勝利に導いた功績を認められ、特捜部に配属されて新たな仕事に挑むことになる。もうひとりは、宇宙開発に挑む若き女性研究者・八反田遙。遙は幼い頃から父親の影響で宇宙に憧れ、日本の宇宙開発を担う研究者になるべく日々奮闘中だった。
この一見何の接点もなさそうなふたりの行動と日々の生活が、一体どこでどんなふうに絡み合ってくるのか。いや、さすがにこれは驚くぞ。というのも――このふたりはついに一度も出会うことなく、話し合う場面もないまま、それぞれに独立して物語が進行していき、それが次第にひとつの形を成していくのである。実に大胆で思い切った構成だが、これから一体何が始まるのか、どこへ連れていかれるのか、まったく予想もつかない面白さが待ち構えているのも確かだ。
特捜部に異動した冨永に与えられた最初の仕事は、群馬県の土建会社による脱税事件の応援だった。このとき会長宅から裏金献金リストと見られる手帳が発見されるが、そこに書かれていたのは、暗号めいた地名と数字の並びで、その意味はいまだ解明されていなかった。しかし、背後には大物政治家の影がちらついており、特捜部としては何としてもものにしたい案件であった。
そんなおり、冨永の親友で小学生の頃からの付き合いである、近藤左門が失踪するという事件が起きる。左門は、文科省で宇宙開発やJASDAの長期計画を策定する宇宙委員会の事務方を務めていた。その彼がどうして失踪などしたのか。冨永は特捜部の仕事のかたわら、左門の行方を探し始めるのだった。すると、そこにも大物政治家の影が……。
一方、八反田遙は宇宙航空研究センターの指導教官・寺島光太郎教授に導かれ、日本の宇宙開発の現状と問題点を目の当たりにする。それは、宇宙開発の現場が生き馬の目を抜く世界であり、同盟国アメリカとの関係の複雑さに触れることでもあった。
戦後、日本は航空禁止令によって航空機の製造はおろか、研究開発すらできなかった。そのため日本の飛行機開発は遅れに遅れ、世界に太刀打ちできない状況にまで陥ってしまったのだった。ところが、そこで飛行機が駄目ならロケットをやろうと言い出した科学者がいたのである。アメリカに追いつき追い越せなんて発想はもうやめよう。アメリカがやらないことをやって、自分たちが一歩先をいくべきだと力強く宣言したのだ。
科学者の名は糸川英夫。日本のロケット開発の父である。
糸川博士が取り組んだのは、固体燃料ロケットの開発だった。ロケットには大まかに言って二種に分類される。ひとつはアポロ型の液体燃料ロケット(HIIAロケットがこれ)で、もうひとつが「はやぶさ」型の固体燃料ロケットである。日本では糸川博士の尽力もあって、この型のロケット開発が独自の発展を遂げていく。その技術力は凄まじく、アメリカが誇るNASAですら真似できないものが沢山あるのだという。何しろ、日本で発射したロケットがブラジルのアマゾンにいる蝶々のど真ん中を撃ち抜くと言われるほどなのだ。しかも、この日本のロケット作りは独特で、肝心なところは口伝に頼り、図面通りには作っていないのだとも。最終的には設計図を見ずに手でいじり、微調整をするため、記録にも残らない。まともな感覚では本当にそんなことがあるのかと思うのだが、おそらく本当のことなのだろう。だとしたら、まさにこれぞ究極にして至高の職人技だと言うよりない。
ただそこにひとつ問題があった。問題と言っていいのかどうか、この固体燃料ロケットの技術はそのまま大陸間弾道弾(ICBM)に応用できるのだった。するとどうなるか。日本の高い技術を狙って、各国が何かしらのアクションを仕掛けるようになっても決して不思議ではないだろう。いわんやアメリカにおいてをやだ。
余談になるが、日本初のジェット旅客機MRJ(三菱リージョナルジェット)が開発されたとき、アメリカは設計図一式を提出しろと迫ったという。そんな理不尽な要求が、今でも現実に行なわれているのだ。これが軍事利用できるロケットとなると、裏でどんなことが起きているかはおよそ想像に難くない。
本書で描かれるのは、まさにその裏側で密かに進行していく陰謀、謀略劇である。加えてそこに、日本の戦後史の隠された部分にもメスを入れ、戦後七十年にわたる政治の闇と〈恥部〉に触れていく。その恥部こそが、本書のタイトルとなっている「売国」なのだとする作者の主張は強烈だ。
巻末に掲載されている主要参考文献一覧の中の一冊にも書かれてあるが、戦後、日本の政治家や大企業のトップの幾人かはアメリカから献金や報酬を受け、協力者となっていた(とその本の著者は断言し、実名も挙げている)。彼らは戦後の日本復興に多大な貢献もしただろうが、はたしてそれは真に日本の将来を思ってのことであったのか。一方で、ニッポンがアメリカに利益をもたらすように取り仕切っていたのではなかったか。そしてまた、こうした闇の関係は人間を替え、形を変えしながら、今でも脈々と続いているのではないか。
真山仁は虚と実の狭間を縫うように、かつまた叩きつけるように、謀略の存在を描いていくのだった。そこで問うているのは、国家とは何か、主権とは何か、そしてもちろん正義とは何かである。
本書に登場する人物のひとりが「国破れて正義あり」という言葉を座右の銘にしているエピソードがある。この言葉は、国が破れても正義を貫かなければならない、正義を貫く人がいれば、国は再生するという意味にほかならない。真山仁は、どこまでも正義にこだわり、正義のありようを憂える作家なのだなと改めて思う。
最後に蛇足ではあるのだが、本書は『週刊文春』連載時よりも相当程度原稿枚数が減っている。これはより完全なる“商品”にするために、無駄な部分を削りに削った結果であった。真山仁がお手本にしたフォーサイスも同様の考えの持ち主で、時には最初に書いた原稿の半分近く削ることになった場合もあったそうだ。
こんなところにも、律儀で、原点に忠実な真山仁の性格が表れているように思う。だからこそ、わたしは大好きなのだが。
二〇一六年六月
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『男女最終戦争』石田衣良・著
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