先ほど私は「好きよ。すきなの」でも、「残酷」という言葉を使った。
藤堂志津子の描く世界は、とても残酷だ。流血や絶叫といった暴力的な残酷さではなく、揺るぎのない静まり返った残酷さ――終焉の予感である。
どんなに泣き、怒り、悩んだとしても、無数の生死を見届けてきた魔女のまなざしで眺めれば、すべてが一瞬の感情にすぎない。だからといって、作者はその瞬間を軽く流すのではなく、逆に、一瞬の愛や喪失や悲哀をくっきりと鮮やかに描きだす。
この終焉の予感は、作者が年齢とともに育んできたのではなく、デビュー当時から内包していたことは、デビュー作『マドンナのごとく』や直木賞受賞作『熟れていく夏』からも感じ取れる。しかし近年、終焉の影がますます濃くなってきたように思うのだ。
藤堂志津子は終焉の予感を、いま、あえて自分の内に向けているのではないだろうか。魔女のまなざしによって、自分自身を容赦なく切り刻み、厳選した調味料を加えアレンジして小説に仕上げる――それは、終焉までどうにか生き続けるための、作者のままならない排泄行為のように私には感じられる。
作家・藤堂志津子は、もしかしたら人間が嫌いなのかもしれない。しかし、人間にとても興味を持っていることは確かだ。
最後に、最近の藤堂さんの「子犬」的な暮らしぶりを少しだけ。
藤堂さんはいま、「おもかげ」に登場するヨークシャーテリアのはなちゃんとふたり暮らしだ。一見、穏やかな暮らしぶりだが、実は心配なことがひとつある。
それは、愛犬はなちゃんの体調が悪かったころのこと。毎朝、藤堂さんが目覚めると、カーペットのあちこちにはなちゃんが嘔吐した跡があった。「こんなに吐いてかわいそうに」と藤堂さんは思っていたのだが、実はそれは嘔吐ではなく、おしっこだった。すぐにわかりそうなものだが、藤堂さんはなんと二か月ものあいだおしっこを嘔吐だと思いこんでいたのだ。粗相したにもかかわらず「いい子いい子」されたはなちゃんは調子にのり、いまでは藤堂さんの家中をトイレにしている。
藤堂さんちのカーペットがいまどうなっているのか、そしてはなちゃんがトイレをちゃんと覚えたのか、もうほんと心配で心配で。こんなとき、藤堂さんが魔法を使える魔女だったらいいのにな、と思う。
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