ライフワークとして知られる『日本文学の歴史』全十八巻の完成後、キーンさんの関心は、もっぱら幕末から明治という歴史の転換期に向けられたようだった。『日本文学の歴史』の原文タイトルをそのまま利用すれば、“World Within Walls”(壁の中の世界=江戸時代)から“Dawn to the West”(太陽は西から昇る=明治時代)への転換期ということになる。『明治天皇』全二巻がそうであり、『渡辺崋山』がそうだった。
しかし、キーンさんが関心を抱いた歴史の転換期はもう一つあって、それは昭和二十年八月十五日の敗戦だった。幕末から明治の転換期が外国列強の脅威をなんとかしのぎ、新しい近代国家を作り上げた草創期とするなら、昭和の転換期で日本人は史上初めて外国との戦争に敗れ、連合軍による占領を体験したのだった。
真珠湾攻撃の昭和十六年末から占領期の最初の一年を含む五年間を、もっぱら作家の日記を通して浮き彫りにしようと試みたのが、新著『日本人の戦争――作家の日記を読む』である。キーンさんによれば、日本人は太平洋戦争で「天国の一年と地獄の三年」を経験したのだった。この“One Year of Heaven, Three of Hell”は、キーンさんが本書の英文タイトルとして考えた候補の一つである。来年に出版予定の英語版の版元コロンビア大学出版局は結局このタイトルを採用しないようだが、著者キーンさんの切り口はこのタイトルに明らかである。戦時の四年間で「天国」と「地獄」をもろに体験した日本人は、八月十五日の敗戦を境にどう変わり、また変わらなかったか。
登場する日記作者は永井荷風、伊藤整、高見順、山田風太郎、内田百閒、渡辺一夫、清沢洌(きよし)、徳川夢声、古川ロッパ等々、作家のみならずジャーナリスト、学者、漫談家、喜劇俳優まで多岐にわたる。キーンさんはこれら複数の日記から関心の趣くまま自在に引用しては、戦時から終戦直後の日本人の日々を描き出していく。
日記といえば、すでにキーンさんには平安、鎌倉から室町、江戸時代を経て近代日本に至る日本人の日記を取り上げた『百代の過客』(正・続)がある。また本書の序章で触れているように、日本文学者ドナルド・キーンが日本人にとりわけ強い関心を抱くようになったきっかけは、世間で言われているように源氏でも近松でも芭蕉でもなく、戦時中に日本の兵士たちが死の間際まで書き続けた日記を読んだことにあった。
もとより日記は、時代を語る貴重な資料である。戦前・戦中・戦後の作家の日記は、その多くが文庫本の形でも公刊されていて読もうと思えば容易に手に入る。しかし、日記が個々の作家を論じる素材となることはあっても、また終戦なら終戦、戦後なら戦後という一時期をめぐって論じられる対象となることはあっても、書かれた時代の有為転変そのものを複数の作家の日記を通して立体的に語る資料として使われた例はないようである。キーンさんの炯眼(けいがん)と言わざるを得ない。
左翼評論家の青野季吉(すえきち)が「神国」を称える日記の一節から始まり、『断腸亭日乗』の不遜とも見える無関心な記述、その荷風と同じく外国生活が長かったにもかかわらず英米への敵意を剥き出しにした高村光太郎と野口米次郎の詩、川田順の短歌、そして伊藤整、高見順、山田風太郎の日記へと読者を一気に誘い込んでいくキーンさんの手際は、実に鮮やかである。
その比類ない説得力は、日記を読み解く批評家キーンの視点と同時に、自ら太平洋戦争を体験した敵国アメリカの海軍情報将校キーンの視点が常に複眼となって働き、ガダルカナル、アッツ、硫黄島、沖縄、そして終戦の日々を語るところから生まれたと言っていい。
生前親しかった伊藤整、高見順への複雑な思い、また会ったことはなくても同年齢で同時代に同じ文学作品を読んでいた山田風太郎に対する親近感と違和感、ぜひとも会っておきたかったというフランス文学者渡辺一夫への強い関心。同人誌「批評」に出てくる親友吉田健一が書いた編輯後記や、昭和二十年十月一日付毎日新聞東京版に載った石川達三のエッセイへのこだわり等々、日記以外への目配りについてもキーンさんならではの卓見が光っている。「あとがき」に出てくる荷風日記の東都書房版と岩波書店版の字句の異同に対する見解は、それだけでも秀抜なエッセイが書けそうだ。
キーンさんは当初、昭和二十年の敗戦前後だけに焦点をあてるつもりだった。しかし書き始めてみて、そこに至るまでの経緯を語らなければ意味をなさないことに気づき、改めて戦時から終戦直後に至る五年間が本書の対象となった。
かつての日本人が軍部支配の戦時をどのように生き、また占領下の終戦直後をどのように生きたか――これまで経験したことのない大事変に直面したとき、人はどう身を振るか。戦後生まれが大多数を占める今だからこそ、かえって他人事(ひとごと)とは思えない。「自分だけは、かつての日本人(軍部を含めて)とは違う」と、誰が言い切れるだろうか。
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