すべての人にとって「すぐそこにある危機」
この「不在」に気づくことができるようになったのは、やはり科学の進歩によるところが大きかった。ここ数年、DNA解析技術がスピードとデータベースの点で、長足の進歩を遂げたのである。
腸からの排泄物、つまりウンチのDNAを解析し、その中から自分自身のDNAを引き算した残りは、腸内細菌のDNA情報となる。その結果、ヒトの消化管内にはおよそ100兆匹の腸内細菌が棲みついているとわかっている。この数はヒト自身の細胞数60兆個を遥かに凌駕している。種類は1万種。しかしランダムに雑多な菌がいるわけではない。限られた系統の菌だけが選抜されて定着しているのである。
当然のことながら細菌はヒトが誕生するよりもずっと前から地球上にいた。ヒトは進んで先住者たちを外界とのインターフェイスである消化管内の同居人として迎えることによって、環境との付き合い方の平衡点を見いだすことを選んだといえる。私が、生命の本質を「動的平衡」と見ているのは、まさにこのようなダイナミックな相互作用のことである。
これら一連の研究結果が意味していることはなんだろうか。細菌の存在が病気をもたらす。これがこれまでの医学の常識だった。ところが事実は逆だったのだ。細菌の“非存在”こそが病気をもたらす。そして有用な細菌を駆逐しているのは、抗生物質の濫用など、過剰な医療行為の結果、あるいは行き過ぎた清潔幻想であるかもしれないのだ。
この解説では腸内細菌のことを中心に紹介したが、もちろん事態はそれだけにとどまらない。
本書の特筆すべきところは、それぞれ異なる分野の専門家が密かに予想して恐れていたはずのこと――つまり「不在」の影響は互いに影響しあって、さらに複雑な問題を連鎖的・相乗的に引き起こすであろうこと――を横断的に調べ尽くし、その全貌を浮かび上がらせていることである。
それは筆者自身が、自己免疫疾患患者として自分の身体に起こっていることを理解したいという切実なまでの当事者意識があるからに他ならない。それがたぐいまれな機動力として筆致に溢れている。
「不在」は、われわれの身体が本来的に持っていたダイナミックなバランス、つまり動的平衡を深刻なまでに乱し、揺るがせているのだ。
今後ますます、我々の生活の中で顕在化してくるであろう「不在による病い」。これはきわめて今日的な病いであり、すべての人の健康にとってすぐそこにある危機に他ならない。本書は、この重大なテーマを余すところなく詳述し、私たちの清潔幻想に警鐘を鳴らすたいへんな問題作だといえよう。
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