小林 新潟へ再疎開すれば、米がありますからね。配給もすごく多いんです。当時、東京と新潟の距離が、今は新幹線だと2時間ちょっとぐらいですけど、当時はまず切符が取れませんし、上野まで8時間ぐらいですから、もうそれは他国と同じですね。米がないというのは、当時の日本人の生活の場合、致命的なことで、ただ、集団疎開するまでは全然嫌な時代になったという感じはなかったですね。僕は、12月8日の開戦の直前までは大人のアメリカ映画を観てましたからね。
田中 だからよく書いておられるように、敗戦後の日本が急にアメリカ化したのではないということですよね。戦前からたくさんアメリカ的なものがあったわけですから。
小林 そうです。このまえ電車の中で、蓮實重彦さんに会ったら、同じことをおっしゃってましたね。戦後アメリカ文化がドッと入ってきたなんて、そんなバカなことは全然ない、ただアメリカ文化そのものがちょっと違ってると。
田中 1つ伺いたかったことですが、1980年代以降の日本の現代文学は、日本的な私小説を否定してはっきりとアメリカ化しました。それまでの小林さんは、いわゆる私小説的なものに距離を置いて書かれていたと思うんですが、そうして日本の現代文学がアメリカ化してみると、逆に小林さんの作品が私小説的に見えてしまうという逆説があります。
小林 体験てものは人間ですから動かぬところで、そういうものが入れば私小説になりがちだけれども、それをどういうふうにフィクションにするかが問題です。家系物なんか全部書いたら大変なんですよ。当時は親戚がみんな満州やなんかに散ってたりラバウルに行ったりしてて、それが全部帰ってくるわけでしょう。
田中 そこが自伝と自伝的小説の差でしょうか。だから小林さんの作品は私小説とはまったく別物で、かつての私小説はやっぱり、どこかで自分のことを書きたいというのが根っこにあったと思うんですが、そうじゃなくて、小林さんは他人を描くためにあえて自分のことを書いておられる。特に『流される』にそれを強く感じたんですが、そこに新しい歴史小説の可能性みたいなものもあるように思いました。
小林 『流される』の場合は、青山で、祖父の家と工場は幸い焼け残ったんですけど、隣まで完全に焼けちゃって、何にもないところで中学2年ぐらいのときを過ごしたわけです。祖父は、「何々を買ってきておくれでないか」とよく言いましたが、祖父は家を出るのが嫌なのか、自分で行かないんですよね。出て行ったらそこらじゅう焼け跡ですから、そういうのを見たくなかったのかもしれない。私の家を建て直すまで1年半そこに住んでると、山の手の生活というのは明らかに育ってきたところと違うことが分かるわけですよね。昭和初年に一世を風靡した歌姫が金を借りに来たり。そういうのは下町にいたら絶対ないわけですね。
田中 そういう細部の積み重ねが、自分とあまり関わりのなかったはずの人物をありありと描き出すというのがとても不思議で、特に滝本という人物が嫌なやつとして出てきているのに、最後に祖父についての一番いい記憶を教えてくれる。そこにある乾いた感傷性が僕はとても好きで、情緒的な物語でその人物に迫っていくのではなく、横にある些細な記憶と脇役みたいな人から迂回してその人物に接近して、その軌跡がすごく鮮やかです。
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