小林 あの滝本という人物は、ほとんどフィクションなんですよ。
田中 あっ、そうですか(笑)。
小林 ああいう人物を設定すると、話を運ぶのに楽だし、実際、祖父が人に「切腹しろ」とか、そういうことはあったんですよ。だけど、相手の子孫がまだ生きてて、いろいろ具合が悪いからですよね。ああいう変な人物で物語を動かしていくということを『流される』ではやったんです。
田中 滝本が最後に祖父の顔にすごくいいピースを嵌(は)めるんで、それで祖父もリアリティのある人間になると同時に、滝本も作品の中でかけがえのない人間になる。それで嫌なやつでもいい仕事ができるというか(笑)、読んだ人は滝本も現実に存在していてほしい、すごくリアルな人間だと感じると思うんですが、そこが自伝ではなく自伝的な作品で、本質的な意味でフィクションになっているということですね。
小林 ええ。
田中 そうすると事実の世界ではなく、事実にすごくよく似た作品の世界のほうが現実であってほしいという読み方を読者はすると思うんですが、それが作品の根源的な力になっていると思います。
小林 書きながら当然自分でも、これは前の『日本橋バビロン』とちょっと違うな、違う作り方をしなきゃいけないなと思いました。3作とも微妙に違うんです。
田中 では『流される』が最後の形ということになると思いますが、それが21世紀における他人を描くという方向に作品の可能性を開いていて、他人を描くために自分のことを描くという逆説を含め、非常に優れた日本語のフィクションの形を示されたと思います。
小林 戦後、私小説っていうものは排除されていました。上林暁(あかつき)が「自分たちは赤犬の徒だ」という川崎長太郎に出した文章があるんです。なぜこんな扱われ方をしなきゃならないのか、という。そういう時代は確かにあったわけでね。
田中 戦後には確かにありました。
小林 僕は、私小説って全然興味なかったんですが、上林暁は違うんだというのがSさんの説なんです。それで僕は当時、筑摩書房から出ていた上林暁全集を全部読んだんですよ。否定的にいわれるそういう系列の私小説と上林暁は確かに違う。これを違うと言ったのは三島由紀夫だと記憶しています。
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