長年、司馬遼太郎さんの担当編集者を務められたお二人。『司馬遼太郎という人』(和田宏著・文春新書)刊行を機に思い出を語り合っていただいた。
山形 これまでにも司馬さんのことを書いた本はたくさんありますが、この『司馬遼太郎という人』は、特に司馬さんが身近に感じられる本でした。担当していた者としては、ピタリとくる感じがありますね。評論家の方が書いた司馬遼太郎論ではないし、かといってよくある編集者の書いた作家についての思い出話でもない。この本のすごいところは、和田さんが見聞きしたことをリアルに文章にした点です。
和田 いやあ、それはもう褒め過ぎじゃないですか。
山形 たとえば、各小見出しになっている司馬さんの言葉ですが、なかなかああいうふうにはつかまえられないですよ。あとから思い出して司馬さんの言った言葉を書いても固くなってしまう。柔らかい司馬さんの語り口がそのままうまく出てきている。話されているときのお顔までが浮かび上がってきます。
和田 いまになってどうしてこれを書いたのか、自分でも不思議です。これまで書こうと思ったこともないし、書けると思ったこともなかった。司馬さんが亡くなって八年半。やっぱり、どんどんいろんなことを忘れていくんです。それが寂しくて、自分のためにちょっとメモしておこうと、ポツポツと書き始めたのがきっかけだった。とても本一冊分になるなんて思っていませんでした。
山形 でも非常に密度が濃い。司馬さんの語り口を生かして、一つ一つの言葉とその背景をちゃんと思い出されている。
和田 司馬さんからいただいた手紙、葉書などを見ていくと、いろいろまた思い出してきましてね。
山形 手紙のやり取りをするという、いい関係があったからこそ、評論では滅多に窺うことのできない司馬像を描けたんでしょうね。
実はこの本を読んで、和田さんが司馬さんによく手紙を書かれていたことに、同じ担当編集者として驚きました。私なんか恥ずかしくてね。ものすごい字が下手なんで、手紙を書くのがちょっと辛い時があって(笑)。そうすると、どんどん書けなくなる。だから用件だけ、「今度は是非お原稿をお願いいたします」とかお礼ばかりになってしまった。
和田 亡くなったときに、司馬さんが生涯に書いた手紙の量は作品の総量を凌駕するのではって追悼文に書いたことがあるんだけど、あの人は本当に筆まめだったんですよ。しゃべるようなスピードで書いてたんじゃないかと思います。
山形 そんなに手紙を書く時間がどこにあったんでしょうね。
肉好きで大の魚嫌い
和田 ところで、司馬さんで真っ先に思い出すのは、すごい偏食だったことですよね。普段、何を食べてたのかな(笑)。
山形 肉がお好きでしたね。
和田 まずカツレツでしょ。それからカレーライス、あとミックスサンドウィッチ。そば、うどんは大丈夫。それ以外のものを食べているところを僕は見たことないんだよね。
山形 みどり夫人が『司馬さんは夢の中』で書かれていますが、司馬さんは結婚前、みどり夫人に、自分は食べることに執着が少なく、魚も肉も嫌いだとおっしゃっていたらしい(笑)。結婚されて初めて、牛肉が好きだということがわかったと。
和田 会食というときは困りましたね。結局、肉を食べさせるところに行くしかない。
山形 カレーだったらどこに行ってもまず信用できるとおっしゃっていた。ご自宅に伺って原稿を待っているあいだにごはんを出していただくことがあるんですよ。あるときステーキだったんですが、これがいい材料を使っていて(笑)。
和田 そりゃ、いい肉を使ってるでしょう(笑)。でも、街なかのレストランの、僕たちが「こんなカツレツ」なんて思うものでも黙って食べる。うまいまずいを言わない人だったですね。
山形 ちょっと手土産をと思っても、困ってしまう。
和田 お寿司なんかダメ。大の魚嫌いだったからね。
山形 担当になって三年目だったかなあ。あるとき、からすみを手土産に持っていったことがあるんですよ。まずかったな(笑)。魚卵がダメだってまだ知らなかった頃の話です。それと、もう一つ失敗談があってね、司馬さんが日本芸術院恩賜賞を受賞したとき、あるレストランでお祝いすることになったんです。もちろん前もってレストランには鳥や魚は絶対ダメですよって言っておいたんだけれども、フォアグラが出てしまった。
和田 一切、手を付けなかったでしょう(笑)。
山形 もちろんですよ。みどり夫人は鳥が全然ダメでしょう。そうそう、尾頭付きの魚もダメ(笑)。
和田 鯛の焼死体を見ただけで胸が悪くなるって、よくおっしゃっていた。それにしても、「鯛の焼死体」っていうのもすごい言い方だ(笑)。
山形 司馬さんは、お酒を飲んでいるようでいて、飲んでいませんでしたね。東京へ来て、われわれと会ったりするときに飲むぐらいで。それも最初は少し口をつけるんですが、あとはほとんどお話になってしまう。
和田 酔っ払うのはこっちばっかり。
山形 司馬さんは酔っ払ってませんでしたね。
和田 昭和五十四年のご自宅の新築祝いのときに、僕ら酔ってみんなでラインダンスや盆踊りみたいなものを踊ったことがあったでしょう。あのとき、こっちはすっかりできあがってたけど、司馬さんはしらふで踊っていたのかなあ。付きあいがいいというか。何というか……。
山形 ご自分は飲まないけど、酒飲みには寛容でしたね。「書生酒」の雰囲気が好きだったんでしょう。でも、酒席でだれかとだれかが大喧嘩したとか、だれかがある人に向かって意地悪したとなると、ものすごく怒ります。
和田 人のご機嫌をとるなんてことはしないんだけど、人を喜ばそうという努力をする人だから、そういういさかいは嫌いだった。
醤油で描いた点描画
山形 お酒の席で、司馬さんがなさる話は聞いていて本当に面白かったですね。
和田 そうそう、すごく語り口がいい。
山形 何を食べているか忘れてしまうことが多かった(笑)。
和田 時事関係や歴史の堅い話だけじゃない。たとえばこういう話もするよね。
司馬さんの知り合いに、どんな商売やってもうまくいかない男がいた。その男がアイスキャンデー屋をやったことがある。当時のアイスキャンデー屋って、自転車のうしろに箱をのせて売って歩くんだけども、その商売も失敗した。なぜ失敗したかっていうと、夏の暑いときにアイスキャンデーを取り出すと、しずくがちょっとたれる。それをペロッとなめてから客に渡してたっていうんだよね(笑)。で、「そんなもん、だれが買うかいな」っていうのが司馬さんのオチ。そういう話が実にうまい。
山形 本当にお上手でしたね。ビルの上から人間を眺めるようにして書くという、司馬さんの「私の小説作法」について誤解も生まれて、攻撃する人もいるけれども、逆に司馬さんこそ街の人々のことをよく知っていたと思いますよ。働く人々を一人一人、リアルに見ていました。しかも、そういう人に対して優しさをお持ちだった。
和田 アイスキャンデー屋のことだって、ダメなヤツだと言ってるんじゃなくて、愛すべき人間だが、どこか要領が悪いんだよなあと嘆いているような、温かくくるんでるところがあったんだよね。そういう話、うまいんですよ、間の取り方が。飽きさせないんだね。
山形 寝ながら志ん生のカセットテープを聞いていたこともあるらしいですよ。
和田 落語が好きだったからね。間の取り方は落語で勉強したのかな(笑)。
山形 ご自身は、僕は耳が悪いから外国語がうまくないとおっしゃっていましたけど、イヤ、耳がよいのではと思わせるときがありました。
和田 しかし、おしゃべりな人だったよね。
山形 私は七三年(昭和四十八年)に初めて司馬さんの担当になったんですが、それまで『中央公論』にいて、ほとんど文芸関係の仕事をしたことがなかった。だから、作家にお会いするのは司馬さんが初めてだったわけ。何を話していいかわからないんで、前任の人に聞いたら、大丈夫、ご自分から話してくださるから、と言われたんですね。それで伺ったら、なるほどと(笑)。
和田 でも、やっぱりしゃべりながらちゃんと相手を観察してたよ(笑)。しかも、話を引き出すのもうまい。だから、あっという間に出身地から何から全部聞き出されてる。
山形 最初に君はどこの生まれだと聞くことから始まってね。そうすると、出生地を名前と結びつけて、「鈴木君は石巻の出か。そのあたりの“鈴木”はもともと熊野から出て……」となる。もうそれだけでみんな感激してしまう(笑)。
和田 絵もうまかったですよね。
山形 京都の飲み屋さんで、女将から何か描いてくださいと突然に頼まれたことがあったんですよ。そのとき、司馬さんは醤油を持ってきてもらって、それを水で薄め、インク替わりにして点描画のように描いたこともありました。
和田 『この国のかたち』の題字を書いてほしいと頼んだときは、マッチの棒にスミをつけて書いてみたりね。そういうことをする人でしたね。司馬さんの本の奥付に「馬」というマークが入ってるでしょう。それまで使っていたマークが古びてきたから、もう一回書いてくださいって料理屋で飯を食ってるときに頼んだらね、箸を包んでいる和紙を集めて、その裏に何枚も書いてくれた。いまでも文藝春秋が出す司馬さんの本にはそれが使われてるんですよ。別の紙にと言ったんだけど、「これでいい」と。そういうことに関しては無頓着だった。
山形 取材ノートにも地図を描いたり。
和田 それをもとに原稿を書いていらっしゃった。
思考の速度そのままの文章
山形 私は司馬さんの文章は、非常に新しいと思うんですけど、どうですか? あのスピード感はすごい。
和田 そうですね。
山形 速いんですよ。それまでの時代小説のように、主人公があちらこちら動くけれども、何で食べているのかよくわからないようなストーリーじゃなくて、ちゃんと説明しながら、それでいて速さがある。司馬さんの思考のスピードがそのまま文章になってるんですね(笑)。
和田 描写力もすごいですね。どの小説か忘れたけど、勤皇の志士が泊まっている田舎の旅籠(はたご)に、宿役人が役目柄、いやいや踏み込まなきゃいけないという場面があるんですよ。手下を連れて階段をおっかなびっくりそろそろと上がっていく。で、襖をガーッと開けて、御用だって言った時に、その宿役人の長い顔が余計長くなったと描いているんですね。それだけで、「ご、ご、ご用だ」なんて言ってる感じがパッと目に浮かぶでしょ。その男の貧相な顔から、腰が引けている情景までいっぺんにわかってしまう。これは勉強して書けるもんじゃないですね。
山形 いろいろな人々の動きや歴史の流れという大きな遠景を、いまのお話のような近景で具体的に見通せるようにお書きになる。だから、すごいんですよ。
和田 それはあの人の魅力の一つだろうね。やっぱり根っからの小説家なんだ。
山形 司馬さんの新聞記者的な要素を指摘する人がよくいるけど、やっぱり小説家だと思いますよ。
そう言えば、司馬さんが直木賞を受賞した頃、私の大先輩にあたる女性編集者からエロ書け、エロ書けと迫られて困ったらしい(笑)。怒ってましたね。
和田 司馬さんが書いても面白くなさそう(笑)。
山形 そうかな。初期の短編には思わず興奮するところがありますよ。
和田 ひと昔前の時代小説には、濡れ場と剣戟の場面を入れなきゃいけなかったんだね。司馬さんは短い中にもちゃんと二つとも入れてたけど、やっぱり嫌だったんだろうと思うな。
山形 亡くなってもう八年半経ったなんて、信じられませんね。司馬さんは、立ち居振る舞いからお書きになるものまで、いつも颯爽(さっそう)としていましたよね。その印象が強くあって、いつまでもお若いというイメージだったので、お身体の苦しみはよくわからなかった。一度、ホテルオークラのロビーを歩いていたときに、「いやあ、僕も年取ったな。前は君みたいに速く歩けたけれど、もう歩けなくなったんだ」ということをポツッともらされたことがありました。私はゆっくり歩いているつもりだったので、びっくりしたんですが。
和田 人前では痛みを見せまいとしていたけど、やっぱりかなり痛かったんですね。あとから考えれば、それは辛かったんだと思う。結局、一切検査を受けなかったんだよね。普通の座骨神経痛だと思ってたのかな。
山形 本当に検査がお嫌いでしたね。
和田 あれだけ痛けりゃ、もっと違う病気じゃないかと疑っても不思議じゃないのにね。あんな明敏な人が、どうして放っておいたんだろう。謎ですね。とにかく格好いい人だったし、人間的にも見事な人だったですよね。
山形 そのとおりですね。怖いくらい。
和田 自分に厳しい人だった。ということは、他人にも厳しい人であるはずなんですけどね。人の欠点がものすごく見えたと思うんだけど、そういうことは表に出さない。だけど、油断しちゃいけないんだ。あの人は自分ばっかりしゃべってたけれど、ずっと観察してたんだよ。
山形 それはつまり、人間好きということでしょう。和田さんの『司馬遼太郎という人』は、そういう点でも見事に生身の司馬さんを捉えた本だと思いますよ。
和田 僕が書いたのは「司馬遼太郎という人」じゃなくて、その前に括弧がついた「(私が見た)司馬遼太郎という人」ですからね。司馬さんの一部分でしかないわけですけど。
山形 でも、その一部分で見事に全体を捉えられている。これを読んで、さらに司馬さんのご本に向かってくれる人が多くなればいいですね。
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