この本を書く必要がなければ、私の人生はもっと穏やかなものだったに違いありません。東京で暮らしながら、1年に1度、高校まで過ごした気仙沼に帰り、昔を懐かしむ。毎年、そんなことを繰り返していたでしょう。
しかし3月11日、私の故郷である宮城県の気仙沼を襲った津波はそれを許しませんでした。
気仙沼には14歳も年が離れた姉が住んでいました。実はあの日、姉は上京する予定になっていたのです。15時41分、気仙沼駅発の汽車に乗って。
大きな揺れが収まった後、姉は律儀にも娘、息子、そして私を含めた兄弟に「今日は東京に行けません。でも、明日には行きますから」と電話をかけてきました。しかし津波が押し寄せたと思われる時間から、姉は行方知れずになってしまいました。そればかりか、納骨を待っていた母の遺骨もどこかに流されてしまったのです。
そこから姉の行方を探す旅が始まりました。しかしその旅は、意外な方向に舵を切っていくことになります。姉の消息を尋ねていった結果、それは自分が18歳まで育った気仙沼を知る旅へと性格を変え、果ては将来の気仙沼を考えることにつながっていきました。
取材を重ねていく過程で、気仙沼で出会った人は100人を超えました。小学校時代からの友だちもいれば、高校生、70歳を超えた方まで年齢は様々です。
3月11日の話を聞くたび、ひとりひとりに物語があることが実感されました。家に帰れなくなり、自分は孤児になってしまったと信じた高校生。ふと漏らしたひと言が、愛する人を死に追いやってしまったと思ったときの絶望。
そして、生死を分けたものは偶然でしかないと、多くの人が話してくれました。なんとなく車のハンドルを右に切った。保冷車の荷台が空だったため、津波に飲まれても車が浮いたので必死に脱出した。
話を聞きながら、ひょっとしたら、姉は紙一重のところで、運に見放されたのかもしれない――そう思ったりもしました。咄嗟の判断が生死を分けたのです。
その一方で、震災前は気仙沼がいかに豊かな町であったかも、取材を通してわかってきました。気仙沼に住んでいると、ほとんど食費がかからないのです。これは東京で発表される経済指標では絶対に明らかにされる性質のものではなく、「隠れた豊かさ」とでも呼ぶべきものですが、それを支えていたのは水産業でした。
魚市場、製氷、加工、船の修理。水産業にまつわるすべてのものがそろっていたのが気仙沼でしたが、それも震災で流失。これらのインフラをすぐにでも復旧しなければ、気仙沼は衰えてしまう。それが取材を通して感じていることです。
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