群像劇が苦手だ。いっぱい人が出てくるからだ。
小説もだめだし、映画やドラマもだめだ。私は刑事モノやら探偵モノやら法廷モノやらの海外ドラマが好きだが、はじめにわらわらと人が出てくるときは、頭と心を無にしてひたすら目の前で起こっていることを受け止めている。私は人の顔や名前がおぼえられない。大学生のとき、クラブの後輩に名前を聞いたら、どうやらもう3回目だったらしく、「○○やって言ってるやろ!」とタメ口で怒鳴られた。担当編集者さんの顔も、最低3回は会わないとわからない。一度に大勢に紹介されたときは、はじめの方に挨拶をした人にまたあとで「はじめまして」と頭を下げている。
世界ってなんてとりとめがないんだろう。
いつも、そう思う。人はいっぱいいてそれぞれ別の人だし、時間は勝手に過ぎて私はもうアラサーどころかアラフォーだし、出来事は私がそれに対してどういう態度をとるか検討しはじめるころにはたいてい終わっていて、次の出来事もたけなわである。よくわからない。理解できない。なんだこれ。それが、私の世界に対する感想だ。
そんな私の頭と心を慰めてくれるのが、小説や映画やドラマだ。それらは、世界の一部を切り出して整え、削り、磨き、ちょっとちがうからぜんぜんちがうまでいろいろな範囲のちがう形にして四角のパッケージに収める。それらは捉えどころがなくてどうしようもない世界の捉え方を教えてくれる。あるいは、捉えどころがなくてどうしようもないんだという捉え方を教えてくれる。小説も映画もドラマも、造形物などの芸術作品も、人間が認識できる範囲を懸命に精査した報告書であり、さらなる開拓を目指した果ての記録だ。
世界は人間のためにあるのではないが、それらの情報は人間が人間のためにつくったものであるので、人間である私はそこそこ余すところなく味わってよいはずである。
その甘えを、群像劇はがつんと打ちくだく。だめだ、おぼえられない、みんな同じ顔に見える、えっとそんでこの人の名前なんだっけ、あれーこれ前にも出た人だっけそれとも今はじめて出てきた人? 世界が私に強いる失敗と絶望が、軽く私を襲う。
だから、世界が苦手なように、群像劇が苦手だ。
そして、この『問いのない答え』は群像劇だ。いっぱい人が出てくる。
しかも、知っている人がいっぱい出てくる。知っている人というのは、そのまま、私が知り合いであるところの実在の人という意味だ。顔も名前も知っている人もいれば、名前しか知らない人もいるし、会ったことがあるのに私は名前しか知らないと思い込んでいる人もたぶんいる(気まずい)。
どうしてかと言ったら、この小説は明らかに長嶋有その人がモデルのコモローという小説家と、明らかに長嶋有と交遊のある人々がモデルとなった登場人物たちが手作りのゲームに興じるさまを描いた『ねたあとに』の舞台である、長嶋有が実際に仲間を招いて夏を過ごすという山荘からはじまり、コモローはネムオと名前を変えて登場するし、本書の中で繰り返し遊ばれるツイッター上の言葉遊び「それはなんでしょう」はネムオがフォロワーさんたちに参加を呼びかけてはじまったものだが、長嶋有は実際にツイッターで「それはなんでしょう」を啓蒙しまくっており、私はそれに参加したことがあるからだ。それも一度や二度ではない。何回もやった。回答したし、出題したし、「それはなんでしょう」をやる人々(通称しょあー)の多くとフォローし合う筋金入りのしょあー、それが私、だから知っている。
それだけではない。知らない人もいっぱい出てくる。きっと架空の人だが、そう思っているだけで私がうっかりフォローし損なっている実在のしょあーである可能性もある(気まずい)。架空の人のようだが、架空かどうか私が知ったことではない人もいる。一人だけ、絶対架空だと自信のある人がいる。不謹慎なことばっかり考えている美少女女子高生、蕗山フキ子だ。彼女は長嶋有の初漫画作品『フキンシンちゃん』の主人公だった(私は彼女の大ファンだ)。
こういった、いる人、いないかもしれない人、多分いない人、絶対いない人たちが一緒くたになって、且つてんでばらばらに、2011年3月11日に東日本大震災が起こった直後の世界に生きている。ある者は被災して家を失い、ある者は東京で余震に怯え、ある者は震災をニュースでしか知らない。またこの世界は、2008年6月8日に加藤智大による秋葉原通り魔事件が発生した世界でもある。ある者はこの事件を記憶から追いやって過ごしていて、ある者は加藤がネット上に残した書き込みを読み漁り、他の人々にも読むように求め、分析し、考え続ける。それに、この世界には安室奈美恵や浜崎あゆみや長渕剛もいる。さすがに彼らが顔を出すことはなくて、登場人物たちが話題に上げるだけだが。
いっぱい出てくるこれらの人々を、震災の3日後に「気晴らし」と銘打ってはじめられた「それはなんでしょう」が、ゆるくつないでいる。
この小説は、2011年の終わりから2013年の初秋にかけて文學界で発表された。私は完結直前、2013年の夏に、発表されているところまでを一気読みした。そのころ仕事でしばらく東京に滞在していて、持ってきた本を読み終えてしまったので、編集者さんにお願いしてコピーを持ってきてもらったのだ。私は書きものの手を止めて、ごろごろしながらコピーをめくり、「うあーいっぱい人が出てくるー、どうしようー」と強く強く思い、「えーとーこの人知ってるしょあーだっけ知らないしょあーだっけ」と気まずい思いをしたが、それ以降はなにを思ったか覚えていない。読み終えてしまってから「こんなやり方があったのか」とため息をつくまで、私はなにも思う暇がなかったんだと思う。
東日本大震災があったとき、私はパジャマのままで録画していたドラマを見ていて、ドラマが終わり、あー面白かったなーとリモコンの停止ボタンを押したら、気楽なバラエティ番組かなんかをやっているはずのテレビが津波の押し寄せる様子を映し出していた。ヘリに乗って中継しているレポーターが、悲鳴のような、泣きそうな声を出していた。私は言葉もなくそれを見ていた。
ほどなくして、小説になにができるのか、小説の役割とはなにか、といったことが囁かれ出した。本当は以前からそういう問いかけはあったのだけど、そのころは私の目の端にちらちらするくらいにまで声が大きくなっていた。生きるか死ぬかのときに、小説を書くしかできない者は無力だ、なんの助けにもならない、というような声もあった。
私はそうは思わなかった。もし小説がなんの助けにもならないのだとしたら、小説はすでに滅びているはずだ。
それから、小説には現代性・社会性のあるものとそうでないものがあって、あるものは価値があるけれどもないものはいまいちなんじゃないか、という考え方があって、それもそのころ、やや声高に問いかけられていた。すでに、何人かの目立ってすぐれた小説家が、震災や原発を取り扱ったすぐれた小説を発表していた。すごいと思った。それらの小説は、小説になにができるのか、小説の役割とはなにかを静かに、確実に世間に見せつけていた。でも、私はそもそも小説には現代性・社会性のあるものとそうでないものがある、という考え方自体には疑問を持っていた。現代に生きていて、社会以外の居場所はないのに、現代性・社会性からまったく自由である小説なんて書くことができるのだろうか? それに、小説が現代や社会を映す一方だと考えるのはつまらない。世界の方こそ、いつか小説を映すのだ。私はそう信じている。だから、こんなに現実に似た世界が描かれている小説に、漫画の主人公であるフキンシンちゃんがしれっと登場するのは、私にとってはちょっと感動的なことなのだ。
いずれにせよ、震災はたしかに決定的な出来事だった。とりとめがなくて捉えどころがない世界を文字通り揺るがし、割った。けれど、震災のその瞬間パジャマで寝癖のままドラマを見ていた私に、世界はまたあっというまにとりとめがなくて捉えどころがない顔を向け、私はいつものようにそのとりとめのなさに呆然としているだけだった。重要なのは、震災前の世界に戻ったわけではなかったというところだ。世界は私にとってさえ、震災後であるという注釈付きの世界となった。それなのに、やっぱりとりとめがなくてもうどうしようもない。
それを、長嶋有は書いた。
長嶋有といえば、日常のちょっとした、ともすればどうでもいいかもしれないようなこだわりをこれでもか! と書き連ねることで有名だし、大人が真剣に遊び(それもアクロバティックな派手なタイプのものじゃなくて、ほとんど座ってるだけみたいな見た目に地味な遊び)に懸ける様子を書くことでも有名だ。
その持ち味はそのままに、『問いのない答え』は異様に技巧的な文章で書かれている。ぱらぱらと移り変わる視点人物の、ある一人がしたこと、言ったこと、考えたこと、気づいたことが、直近の視点人物や、ときには章をまたいだはるか向こうで待っている視点人物に引き継がれ、やや味わいを変えながら何度も繰り返されるのだ。それでいて、それらは行動、セリフ、思考などを共有した複数の人物のあいだで示し合わされることはない(一方だけが気づくことなら、たまにはある)。つまり、互いに、自分と同じようなことをしたり、言ったり、考えたり、気づいたりしている当事者たちは、そのことを全然知らずに過ごしているのである。恐ろしいことには、秋葉原通り魔事件の加藤がネット上に書き残した膨大な行動、感情の動きもまた、罪のない登場人物たちによって、反復されていく。それは、ツイッターで、フォローしている人たちが互いにそうと知らずに同じ話題を書き込んでいる様子にとてもよく似ている。
読み進むにつれて、あ、これ、前にもあった、とか、ん? 前にもなんかなかったかな、というものが増えていく。きっと気がつかないで読み過ごしてしまっているところもある。読む人によって、心に強く刻まれる事柄はちがうはずだ。私は一つだけ挙げるなら、「独特な三角形」がすっかり頭にインプットされてしまった。「独特な」なんてちょっと雑な物言いじゃないか、と思いつつ、もう私が今後そう称されているそれを見たら「独特な」を反復せざるをえないだろう(なにが「独特な三角形」なのかは探して気付いてください)。それは、この小説が世界に溶け出していると実感する瞬間だ。
読んでいる途中でなにかを見過ごしているんじゃないかと気になって戻るのは正しいし、気がつかないで通り過ぎていくのも正しい。気がつかない、ということも、この小説ではちゃんと肯定されている。ある人物は、その人にとってとても大切なことを勘違いしている。その勘違いが勘違いであることを知らされても、事実をすっかり忘れ去ってしまっているので、わけがわからないままだ。正解は地の文で読者に知らされるが、その人物はずっと知らず、正解に至るドラマは用意されない。
なんという整理され、削られ、磨かれたとりとめのなさだろう。
私は世界のとりとめのなさが苦手で、そのとりとめのなさを丸投げするかに思われる群像劇が苦手だけれども、とりとめのなさを群像劇で描いたこの『問いのない答え』は苦手じゃない。これは、世界は捉えようがなくてどうしようもないのがよし、という捉え方を教えてくれているから。
そして、この本は、そのどうしようもない世界で、どうやって楽しく生きていけるのか、そのことまでも教えてくれている。それはもちろん、長嶋有が今まで書いてきたように、日常の細部へこだわりを持つことと、真剣に遊ぶことだ。
加藤も、日常の細部へのこだわりは持っていた。でも加藤は、楽しくなかった。加藤は、「「誰でもよかった」/なんかわかる気がする」と書いた。何人かの登場人物も、同じようなことを思う。「今ここでこう思って動いているのが私ではない誰でもよいんだな」「どの気持ちを誰が感じたのでもいい。人は取り替え可能だ。」「我々は取り替え可能だ。だがもし取り替わったとしても、そのどの我々も、きっと素敵だ。」
加藤の「誰でもよかった」と登場人物たちの「誰でもよかった」の差は、自分が言っていること、やっていること、感じていること、気づいていることがどこかで誰かに共有されていることへの信頼と、それを面白がることのできる能力にあるのではないか。加藤には自分しかいなかった。加藤は、世界には他者がいて、他者がいるということをどう嗜めばいいのかを問わなかった。ここにはその答えが、はっきりと書かれている。
その能力を培うための訓練が、遊びだ。登場人物たちは、非常時の気晴らしとしての「それはなんでしょう」を「全力で」「懸命に」「必死で」遊ぶ。遊ばなければ死ぬ、という気迫がそこにはある。肉体は死なないかもしれないが、精神のどこかは死ぬのだ。「それはなんでしょう」は他者の設問によって意外な答えになってしまった自分や別の他者たちの答えを楽しむ。答えを書いた人よりも、たいてい他人の方がその答えのいいところを引き出す。自分の答えがどんどん他者によって楽しまれ、自分一人では決して辿り着けなかったところへ転がっていくのを見守るのが、この遊びの醍醐味だ。
残忍な殺人事件はこれからも起こるし、おそろしい災害もこれで終わりではない。この本は、過去に起こってしまったことを悼む本ではない。私がこの本を読んで「こんなやり方があったのか」とため息をついたのは、ひとつには小説家として実際に起こった災害や殺人を取り扱うやり方に感嘆したからだし、もうひとつは、この本はこれからのために身構える方法を提案しているとわかったからだ。
ところで、本書は単行本では、各章ごとに章題を挟まず、●がぽんとひとつ置かれただけで、継ぎ目なく進んでいく。これがまことに世界のとりとめのなさをよく表していたのだが、いささかとりとめのなさの暴力性が強かったかもしれない。この文庫版ではまっとうに章題が掲げられ、改ページされる形式となる。さらにこの解説のあとには、単行本には収録されていなかった続きが待っている。さらにさらにそのあとには、やり方を少しおぼえたあなたと、無数の他人の人生が続いていく。
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