のっけから私事で恐縮だが、初めてラジオドラマ脚本を書いた時、故郷である大阪を舞台にした。きちんとした物語(フィクション)を書くのは初めてだったので、自分がよく知っている街なら書きやすいのでは、という思いつきからだった。完成した脚本を某ラジオドラマ脚本懸賞へ応募したところ、幸運にも賞をいただき、結果的に物書きへの道が開いた。
生まれ育った街を物語の舞台にする――それは自分自身を内側から確認するようなことであり、同時に外側から徹底して自分を観察することである。執筆当時、わたしは故郷を離れて暮らして一〇年以上経っていた。脚本を書くことによって故郷に育まれた自分を実感し、自分の中に故郷の断片を度々発見した。
実を言うと脚本を書いてしばらくしてから「これは自分が歩まなかった人生を描いていたのだ」と気づいた。主人公の家庭環境や性格など、自分と違うところは多々ある。だけど芯のところは似通っている。ある意味、もう一人の自分の行方を追っているような気持ちでずっと書いていた。
本書は唯川恵さんが故郷金沢を舞台に描いた作品である。恐れながら言わせていただくと「故郷を離れて暮らしながら、故郷で暮らす人を書く」という共通点を勝手に感じている。
ならば本書の主人公、永江希和子はもうひとりの唯川さん? か、どうかはわからないが、読み進めるうちに自然と重ね合わせてしまった。
まず冒頭の描写がすごい。一二月半ばの冬雷を布団の中で確認する場面。真夜中に冬の到来を告げる雷、激しい稲妻。しばらく居座り続ける長い冬に、ひたすらに耐えている。
自然は心躍らせてくれることもあるが、どうしようもなく落ち込ませたりもする。それこそが自然の特性で、そういうものに抗わない希和子の性質がわずか十数行で伝わってくる。
希和子は自然そのもので、金沢を体現するような人だと思う。芸妓の娘として生まれ、父を知らずに育ったが、変にひねたり、劣等感を抱いたりすることもなく、見事に育った女性だ。
希和子が出会う新進の友禅作家・瀬尾俊市。
二人はよく似ている。友禅界の古いしきたりや仕組みの中で、自分の追う芸術との違和感がぬぐえない俊市。
古いしきたりや風習を「皮膚の一部みたいにくっつけて生活してる人」に囲まれて育った希和子。
出会ったときからある予感を感じさせるが、俊市に思いを寄せていくくだりは、誰かを好きになった経験がある人には、どうしようもないほどわかるのではなかろうか。特に希和子が瀬尾への気持ちを自覚した瞬間がいい。
「それは、心の奥から突き上げるような感情だった。
『私はこの人が好きだ』」
とてもシンプルで、正直で、希和子自身が自分の中から湧き出てきた感情に驚くのもよくわかる。人を好きになるということは、その人を無意識に想う感情が自分からあふれ出し、止められなくなる時なのだろう。
人間は自然の一部だが、人間の心の動きも自然そのものだ。突然の天災や気象などにより、自然は大きく変化する。恋は人の心に大きく作用する。
恋による幸福は高まるほどに、その高みから落ちるダメージが大きい。希和子はふいに幸福の絶頂から絶望へと突き落とされてしまう。彼女がつかんだ幸福に心温められていた読者も、いきなり吹雪の中に放り出されたような気分になるかもしれない。でもこれもまぎれもない自然現象だ。
人の心は常に動き、立ち止まることはない。その動きこそが生きている証で、死ぬまで続く。恋愛も仕事も、心が動いてはじめて生きているという実感を覚える。
心に年齢は関係ない。希和子の母・道江は、芸妓時代に希和子の父と出会い、一人で希和子を産んだ。古いしきたりが残る街で結婚もせず、子どもを産み育てることへの周囲の偏見、過酷さは計り知れない。自らは芸妓から身を引き、希和子が成人しても心の中にあるのは、かつて愛した人のことではないか、と思う。道江が何も言わず夜が明けるまで三味線を弾き続けている場面では、若い頃のように道江の心が激しく動いているのが見えた気がした。
ところで本作は、実は二十年以上前に書かれた小説である。しきたりや風習というようなものは土地柄として存在するが、『夜明け前に会いたい』には不思議と古さや違和感がない。なぜなら時代の違いであっても、心の中に生きる価値観や信じる対象は、それほど変わらないし、人の心は普遍的なものだから。
自分の思う正義、罪、喜び、悲しみ、人が心の奥に秘めた感情は、時代がどれほど変わっても変わらない。それは古今東西の小説を読めばわかることだ。
今見ると驚くような、時代特有の差別や価値観に苦しむ人々の感情、それらはどれも本物だ。苦しみの原因は違っても、感情そのものは変わらない。本書が古びないのは、描かれる人間の感情が“自然”だからだろう。
希和子も、俊市も、幼なじみの恒も、若き芸妓のみづ枝も、しきたりや価値観の傘の下にいながら、その傘から出て行こうとする。若い世代にとってごく当たり前の反応として、応援したくなる。
金沢の自然の美しさ、豊かさ、そしてそこに生きる人々の懸命さ、さまざまな色で織りなされた物語に、いつのまにかその中の一色となり、入り込んでしまったようだ。読書中、この街の住民になり、長い冬を耐え、自然の一部として生きていた。
夜明け前に会いたい
発売日:2015年07月24日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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