この2つの出来事は、地下水脈で親子の世代を不気味につないでいる。どちらも子どもの無意識に埋め込まれた価値観として、生きながらえていくのだ。
絵美子は、耕一郎が生きたことに、何らかの意味や価値があったと表明する考え方自体に違和感を持つ。なぜなら、「こうちゃん(耕一郎)がいないわたしも、どこにもいない。ほかに意味なんかありません」と感じているから。一緒に生きたという事実のかけがえのなさ以上に、価値の優劣など存在しないのだ。
絵美子は、いとこがどんな理由でどんな気持ちで、耕一郎の存在を根本から否定する言葉を口にしたのか、尋ねてみることにこだわり続けるが、なかなか踏み切れない。ようやく実現したのは、小説も終わりのほうになってから。事実を知った絵美子は、若いうちに聞かなくてよかった、と思い知る。
「わたしたち、憎み合うようになっていたわ、きっと。『フテキカクシャ』ということばは、それだけおそろしい憎しみを含んでいた。わたしたちはきっと、それに耐えられなかった。(中略)そんな憎しみにもし本当に指一本だけでも触れてしまったら、あのあと心の底から笑うこともできなくなっていたのかもしれない」。
これは今、現実に起きている。ヘイトスピーチに代表される差別の言葉が、吹き荒れている。津島さんは、「おそろしい憎しみを含んで」いる差別の言葉が平然と放たれ、野放しになっている現実に、まさにご自身のお兄さんが今引きずり出されて改めて殺されるかのような恐怖と苦しみを覚えていたのだろう。それが本作の戦慄すべきタイトルにも表れている。
どんな人間でもいとも簡単に、極めて残酷な差別に引きずられていくさまを、この小説は、戦後に生まれた者たちの、魅力的な悲喜こもごもに満ちた個人史の形をとりながら、完膚なきまでに明るみに出す。小説にしかできない、現実との格闘である。この傑作を、どうしても読んでほしい。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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