権力の座での言葉
これまで四人の女を相手にするときは、一人にカネをやり、一人にハンドバッグをやり、一人に着物を買ってやり、残りの一人はブン殴ればすんだが、こんどばかりは女同士の結束がかたくて、うまくいかん。
野党四党(社会・共産・民社・公明)の抵抗が激しく、国会審議がままならない状態を嘆いた言葉(「週刊文春」1973年6月4日号)。記者相手のオフレコだったが、共産党によって衆院法務委員会に持ち出され、支持率低下に拍車をかけた。
角栄は数々の名言・至言を残す一方、迷言・放言にも事欠かなかった。例えば、「野党がなんだかんだいっておっても、気にしなくていいんです。あれ、三味線みたいなもんだから……。子供が一人、二人ならいいけど、三人、四人とおると、うるさいのもいるもんですよ、ねえ、オッカサン、そうでしょう」(「週刊文春」1974年7月1日号)。これは一九七四年(昭和四十九年)六月、島根県浜田市で参議院選挙の演説。
総理・総裁なんていうのは帽子なんだ。帽子というのは言い方がまずいから、機関だと言っているんだ。思い上がりも甚だしい。
一九八三年(昭和五十八年)十月十二日、ロッキード裁判の一審は、懲役四年の実刑に追徴金五億円という重い判決だった。無罪を信じていた角栄は「判決はきわめて遺憾。上級審で身の潔白が証明されることを確信している」とコメントを発表。その夜は、目白の私邸に集まった約七十人の田中派議員を前に、怒りをぶちまけた。
時の首相・中曾根康弘は、角栄の後押しで政権の座に就いたために「田中曾根内閣」と揶揄される関係だった。名指しこそしないが、角栄の怒りはそちらへ矛先が向く。「総理・総裁に適任なのは自分しかないと思っているやつがいる。そんなことで総裁は務まらん。生意気なことを言うな」。
他派閥に対する恫喝も忘れなかった。「三十人しか議員がいないのに、二人の閣僚を出している派閥もある。われわれの方が貸しているところもあるんだ。数の論理を無視して何ができるんだ。そうでしょう。われわれには百五十人の仲間がいるんだ」(「諸君!」1983年12月号)。
わたしが総理大臣を辞めた原因は、マスコミに報道されていることをひっくり返すつもりもないし、それはそれでいいのだが、はっきりいって“金脈”で辞めたのではない。全然違うんだ。じつは、さっきの甲状腺機能亢進症なんだ……。
田原総一朗による独占インタビューの一部。自ら甲状腺機能亢進症(バセドー氏病)の病状に触れたあと、田原が「刑事被告人となって自民党を離党したあとも、田中派は最大派閥のまま。なぜ強大な力を維持し続けられるのか」と尋ねると、「いまの質問に答える前に、一つだけいっておきたいことがある」と前置きして、上の釈明が始まった(「文藝春秋」1981年2月号)。
健康を害するに至った政権末期の多忙なスケジュールの説明は一時間近く続き、最後に「いまは元気だ」と健在ぶりを誇示して締めくくられた。しかし角栄は、辞任に際して健康状態を問われたときには、「公職にある者が健康を問題にすべきじゃないよ」(「文藝春秋」1981年3月号)と語っていたはずだが。
池田さんも、佐藤さんも、大平君も、みんな早く死んでしまった。佐藤さんなんて、頑健そのもので、ぼくは、間違いなく百歳まで生きると思っていたのだが……。総理大臣という職は、その椅子に、坐った人間の精気も生命も吸いつくしてしまうんだね。
上と同じインタビューで、総理辞任は体調不良のせいだったという釈明の続き。総理になって二年目の国会の最中に、顔面神経炎になったと語った(「文藝春秋」1981年2月号)。
吉田茂も石橋湛山も佐藤栄作も、大変痛くて辛いこの病気に悩まされたとか。「本物(の悪)は、ならないんだよ。なるのは気の弱い人間だ」というのが角栄説。ところが、吉田も石橋も佐藤も、顔面神経炎を患っておらず、遺族たちからは憤慨する声が寄せられた。
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