みんな選挙が怖いから頼りになる人間が欲しいんだ。それはおれ以外にないから、三分の二はおれのとこへ来る。
ロッキード一審判決を前に、立花隆と政治評論家の伊藤昌哉が対談。立花が、佐藤派から多数の議員を引き抜いたときの角栄のセリフを紹介した(「週刊文春」1983年2月3日号)。「田中が没落するとしたら、ズバリどういう形で終りになるでしょうか」と立花が問うと、伊藤は、「政局が紛糾し、田中の政治力に対し是か非かの場面がくる、このとき角さんが最も信頼した人によって裏切られる。そういう形でしか結末をつけられないんじゃないか」。
竹下・金丸による創政会旗揚げは、この二年後。『自民党戦国史』著者の慧眼は、現実となった。
わたしには、全軍に号令をかけるということは、ちょっとむずかしいかもしれないな。大の虫を生かすために、小の虫を殺すということはできないから。
大蔵大臣のときに登場した大宅壮一の連載「人物料理教室」で、「次期総理の有力候補というところまで来たんだから……」と水を向けられた際の答え(「週刊文春」1965年5月10日号)。
「幹事長をやれといわれれば、やりますか」と訊かれると、「幹事長は、小刀やカミソリじゃダメだね。やっぱりナタでなくちゃ。だから政治家としては、なかなかむずかしい仕事ですな」。この翌月、幹事長に就任。総理への地歩を着々と固めていった。
大臣なんて、なろうと思えば誰にでもなれる。だが、総理総裁は、なろうと思ってなれるものではない。天の運というものがある。すべての準備をととのえて、公選の前日に車に撥ねられる、ということもある。
一九七〇年(昭和四十五年)十一月、ジャーナリストの児玉隆也が二時間にわたって角栄をインタビュー。総理の座を目の前にした心境を訊き、返って来た答えを、「淋しき越山会の女王」の記事中で紹介している(「文藝春秋」1974年11月号)。この当時は二度めの自民党幹事長で、総理就任は一年八カ月後のこと。
私はこのたび、はからずも……いえ、はからずもじゃありません、私は全智全能を傾けて総裁の地位を獲得しました。
総理就任直後、財界人の会合に出席して挨拶。「はからずも……」と言いかけたものの、額の汗をハンカチで拭いてから、思い直して本音を吐露。大きな拍手で迎えられたという(「文藝春秋」1973年12月号)。
君たちもいっちゃうのか。
一九九三年(平成五年)十二月十六日、角栄は七十五歳で死去した。角栄に口説かれて政界入りした山東昭子・元参院議員が語った思い出は、創政会立ち上げに際し、羽田孜らと「勉強会を作りましたが、誤解しないで下さい」と挨拶に行ったときの返事。脳梗塞で倒れる二、三日前だったという。まさに闇将軍の元から一人二人と“脱藩”していく場面で、哀切を感じさせる(「週刊文春」1994年1月6号)。
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